「もう考えるのをやめよう」
そう決めた直後に、
また同じ場面を思い出していることに気づく。
言い返せなかった一言。
失敗した瞬間。
誰かの表情。
自分の未熟さ。
反芻は、
「やめたい」と思った瞬間にも起こる。
だから多くの人は、
自分を責める。
意志が弱い。
切り替えが下手。
執着している。
でも、
反芻は意志の問題ではない。
反芻とは、
「思考が」暴走している状態ではない。
「身体が」、未処理の刺激を保持している状態だ。
強い感情を伴う出来事は、
言葉になる前に、
身体に刻まれる。
緊張。
収縮。
心拍の変化。
呼吸の浅さ。
それらは、
「まだ終わっていない」という信号として、
身体の中に残る。
反芻は、
その信号が、
何度も思考層に引き上げられる現象だ。
だから、
反芻を止めようとしても止まらない。
思考で止められるなら、
とっくに止まっている。
意志が介入できるのは、
言葉になったあとの層だけだ。
反芻が始まる場所は、
その手前にある。
人はよく、
「納得すれば終わる」と言う。
確かに、
頭での理解や意味づけが助けになることもある。
けれど多くの場合、
どれだけ説明がついても、
反芻は続く。
それは、
身体が納得していないからだ。
出来事は終わったが、
反応が終わっていない。
反芻を減らすには、
考え方を変えるより先に、
反応を終わらせる必要がある。
終わらせるとは、
忘れることではない。
無理に許すことでもない。
ただ、
身体が「もう危険ではない」と
判断できる状態を作ることだ。
安心。
安全。
緩み。
それらは、
説得では生まれない。
環境や、
関係性や、
時間の中で、
ゆっくり戻ってくる。
反芻しているとき、
人は「過去に囚われている」と言われる。
でも実際には、
過去にいるのではない。
今この瞬間も、
身体が警報を鳴らしている。
だから、
「今に戻ろう」という言葉は、
ときに残酷になる。
戻れないから、苦しいのだ。
反芻は、
敵ではない。
守ろうとした痕跡だ。
ただ、
その役目が終わったあとも、
スイッチが切れないだけ。
止めようとするより、
少し距離を取る。
「また鳴っているな」と気づく。
それだけで、
反芻は
「自分自身」という主体から
「一つの反応」という客体に変わる。
意志で止められないものを、
意志で裁かなくていい。
反芻が弱まるときは、
決意した瞬間ではない。
身体が、
ようやく安全だと感じたときだ。
それを待つことも、
立派な選択だ。