なぜ沈黙が怖いのか

沈黙が怖い、という感覚は、
特別に弱い人のものではない。

むしろ、
現代を生きている多くの人にとって、
沈黙は「耐えるもの」になっている。

音楽を流す。
動画をつける。
誰かの声を聞く。
SNSを開く。

完全な無音、完全な入力停止は、
多くの人にとって落ち着くどころか、
不安を呼び起こす。

なぜだろう。


人間は、外から来る刺激を
ただ受信している存在ではない。

外部の「波」を、
内部で何度も反射させ、
エコーとして「頭の中」に溜め込み、
それを自分の声のように感じてしまう性質を持っている。

沈黙とは、
外部入力が止まることではない。

内部で反射していたエコーが、
減衰しきってしまう瞬間
だ。

そのとき、
はじめて聞こえてくるものがある。


それは多くの場合、
はっきりとした言葉ではない。

「こうしたい」という明確な意思でもない。

もっと手前の、
輪郭のない違和感や、
理由のない疲労や、
説明できない空白。

それらは普段、
外からの音にかき消されている。

だから沈黙が怖い。

沈黙は、
聞こえなくしていたものを、
聞こえる状態にしてしまう
から。


ここで重要なのは、
それが「本当の自分の声かどうか」は、
実はまだ分からないということだ。

沈黙の中で立ち上がるものも、
過去に浴び続けた外部の波――
期待、命令、評価、不安――が
内部で反射した残響かもしれない。

それでも沈黙は、
外部の波と内部のエコーを
切り分ける唯一の時間になる。

少なくとも、

「今、何も足されていない」

という状態だけは確保できる。


現代社会は、
沈黙が生まれにくい構造をしている。

「善意」の指示。
「前向き」なメッセージ。
「正しい」情報。
「役に立つ」助言。

それらは音量を下げないまま、
絶え間なく供給される。

内部でエコーが消える前に、
次の音が入ってくる。

この状態では、
自分が何を感じているのかを
確かめる余地がない。

だから人は、
「自分が分からない」と感じる。


沈黙を怖がらない、というのは、
勇敢になることではない。

何かを悟ることでもない。

ただ、

一時的に、入力を止めることを許す

それだけだ。

沈黙の中で何も聞こえなくてもいい。
不安しか立ち上がらなくてもいい。

それは失敗ではない。

むしろ、
外部の波がようやく減衰した、
正常な状態かもしれない。


沈黙は答えをくれない。

沈黙は救ってくれない。

ただ、
どこまでが外の声で、
どこからが内側なのかを、
曖昧なまま照らす

それだけで、
十分な役割を果たしている。

怖さが消えなくてもいい。

沈黙の中に、
少しだけ留まれるなら。

それはもう、
何かが始まっている証拠だ。

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