第9章 結論:制度は誰の身体の上に立っているのか
――裁かれたのは、個人だったのか
ここまで、
一人のバス運転手の着服事件を起点に、
- 仕事のリアリティ
- 制度設計の合理性
- 退職金の混線
- 身体と頭脳の配分
- 社会全体の最適化
を辿ってきた。
最後に残るのは、
シンプルだが重い問いだ。
この制度は、
誰の身体の上に立っているのか。
今回、裁かれたのは、
一人の運転手だった。
着服という行為は、
確かに問題だ。
それを否定する必要はない。
だが、
その行為が起きた場所、
支えていた身体、
積み重なっていた時間、
それらは、
裁きの対象にはならなかった。
制度は、
個人の行為だけを
切り取って裁いた。
だが、
制度そのものは、
誰からも問われなかった。
- 着服できる仕組みを選んだ判断
- 身体に集中する負荷
- 退職金に集約された制裁
- 段階も回復もない処分
それらは、
「仕方がないこと」として
背景に退いた。
この構図は、
今回に限った話ではない。
身体を使う仕事全般に、
繰り返し現れる。
事故。
不正。
ミス。
何かが起きた瞬間、
個人が前面に出る。
だが、
社会はその裏で、
- 止められない仕事を前提にし
- 壊れるまで使い
- 壊れた瞬間に切り離す
という流れを
当たり前のように続けてきた。
制度は、
無色透明ではない。
必ず、
誰かの時間の上に立ち、
誰かの身体の上に立ち、
誰かの我慢の上に立っている。
それを忘れたとき、
制度は、
正しさの仮面を被った
暴力になる。
退職金ゼロという判断が、
法的に適法だったとしても、
それが社会として
最適だったかは、
別の問いだ。
法律は、
最低限の線を引くだけだ。
その線の内側で、
どんな社会を選ぶかは、
私たちの問題だ。
もしこの判決を、
「厳しくて当然」
「信頼を裏切った罰」
として消費してしまえば、
構造は変わらない。
次もまた、
どこかで同じことが起きる。
だが、
この出来事を通して、
- 身体を使う仕事の重さ
- 制度が負荷を集める癖
- 配分の歪み
に目を向けることができたなら、
それは単なる事件ではなく、
社会の自己点検になる。
制度は、
誰のためにあるのか。
効率のためか。
管理のためか。
安心のためか。
それとも、
生きている人間のためか。
答えは、
一つである必要はない。
だが少なくとも、
制度が立っている地面を
見失わないこと。
その地面が、
誰かの身体であることを
忘れないこと。
それが、
次の設計へ進むための
最低条件だと思う。
この論考は、
解決策を提示しない。
ただ、
問いを残す。
制度は、
今日も回っている。
その下で、
誰の身体が
支えているのか。
それを考え続けること自体が、
この社会にとって、
ひとつの責任なのだと思う。