5 これは保険ではない──人質である

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第5章 これは保険ではない──人質である

――退職金が果たしている、もう一つの役割

前章4 退職金の構造的混線では、
退職金という制度の中に、

  • 功労
  • 信頼
  • 将来保障

という本来別々であるはずの要素が、
整理されないまま混線していることを見てきた。

この章では、
その混線が実際にどのような機能を生んでいるのかを、
もう一段踏み込んで考えたい。


退職金は、
しばしばこう説明される。

「長く勤めてくれた人への報い」
「信頼関係の証」
「退職後の生活を支えるため」

どれも、
一見もっともらしい。

だが、
実際の制度の振る舞いをよく見ると、
どうしても別の顔が浮かび上がってくる。


もし退職金が、
「信頼を損なわないことの保険」
だとするなら、
制度設計は本来こうなるはずだ。

  • リスクの高い人ほど、
    掛け金が高い
  • 無事故無違反の実績がある人ほど、
    掛け金が軽くなる

保険とは、
未来の不確実性に備える仕組みであり、
過去の実績を評価して
安定させていくものだからだ。


ところが、
退職金はまったく逆の形をしている。

  • 勤続年数が長いほど、
    金額が大きくなる
  • そして、
    一度の逸脱で、
    すべてを失う

ここには、
保険に見られる
「リスク分散」も
「段階的調整」もない。

あるのは、
一点集中の脆さだ。


この構造が意味しているのは、
退職金が
「守るための制度」ではなく、
「縛るための制度」として
機能している

という可能性である。

長く勤めるほど、
失うものが大きくなる。

だから辞めづらくなる。
だから声を上げづらくなる。
だから無理をしてでも、
現場に留まり続ける。


これは、
偶然の副作用ではない。

退職金が、
行動抑制のための担保として
働いているということだ。

もっと率直に言えば、
人質である。


この言葉は、
強すぎると感じられるかもしれない。

だが、
制度の機能だけを見れば、
他に適切な表現が見つからない。

  • 途中で逃げれば、
    すべてを失う
  • 最後まで従えば、
    解放される

この構造は、
交渉や信頼ではなく、
拘束に近い。


もちろん、
すべての人が
この制度を苦痛として
感じているわけではない。

安定を好み、
長期雇用を前提に
人生を設計する人にとっては、
メリットもある。

だが問題は、
そのメリットが
制度への適応を前提にしたもの
だという点だ。


一度その構造に入れば、
別の生き方を選びにくくなる。

声を上げることも、
環境を変えることも、
リスクが大きすぎる。

結果として、
制度は安定する。

だがその安定は、
人の沈黙と引き換えに
得られたものだ。


今回の事件を
この視点から見直すと、
別の輪郭が浮かぶ。

退職金の全額不支給は、
単なる制裁ではない。

それは、
「人質が回収された」
という構図でもある。


このやり方は、
確かに強力だ。

見せしめとしても、
抑止としても、
効果はある。

だが同時に、
制度そのものへの信頼を
静かに削っていく。

なぜなら、
そこに説明可能な段階がなく、
交渉の余地もなく、
回復の道も示されないからだ。


次章6 身体の仕事は止められないでは、
なぜこうした
「縛る制度」が、
特に身体を使う仕事
集中しやすいのかを考える。

鍵になるのは、
「止められない」という性質だ。

制度は、
止まらないところに、
負荷を集める。

その仕組みを、
次は生命と身体の視点から
見ていきたい。

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