2 バス運転手という仕事のリアリティ

第2章 バス運転手という仕事のリアリティ

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――「運転しているだけ」ではない仕事

バス運転手の仕事について、
私たちはどれくらい具体的に想像できているだろうか。

多くの場合、
「座ってハンドルを握っている仕事」
「ルートは決まっている」
「特別な判断は少ない」
そんなイメージが、
無意識のうちに置かれている気がする。

けれど、
実際の現場はまったく違う。


まず、身体の拘束がある。

バス運転手は、
長時間、同じ姿勢で座り続ける。
立ち上がって体を伸ばすことも、
自由に席を外すこともできない。

座り仕事だから楽、
というのは大きな誤解だ。

腰、首、肩、膝。
同じ姿勢で固定されることで、
特定の部位に負荷が集中する。

しかもその状態で、
常に「事故を起こしてはいけない」
という緊張が続く。


集中力の質も、特殊だ。

スマートフォンを見ながら、
考えごとをしながら、
という集中ではない。

歩行者、自転車、他の車。
信号、標識、天候、路面状況。

さらに、
乗客の動きや車内の様子も、
視界の端で捉え続けなければならない。

一瞬の気の緩みが、
重大事故につながる可能性がある。

この集中は、
数分や数十分で終わるものではない。
何時間も、
毎日、
積み重なっていく。


そこに、
乗客対応が重なる。

バス運転手は、
単なる「運転専門職」ではない。

  • 行き先を尋ねられる
  • 料金を聞かれる
  • 乗り換えを聞かれる
  • クレームを受ける

しかもそれは、
運転の合間ではなく、
運転しながら起きる。

対応が少しでもそっけなければ、
即座に苦情になる。
SNSや窓口に届く。

「公共交通なのだから当然」
と言われれば、
その通りかもしれない。

だがその“当然”が、
集中と緊張の上にさらに積み重なる。


さらに厳しいのが、
時間の不確実さだ。

道路は、生き物だ。
渋滞は予測できない。
事故も、急病人も、
突然起こる。

それでも、
運行間隔は守らなければならない。

結果として、
何が起きるか。

トイレに行けない。
水を飲めない。

これは比喩ではない。
現場で実際に起きていることだ。

身体の基本的な欲求を、
業務のために後回しにする。
それが日常になる。


そして忘れてはならないのが、
技術の話だ。

大型バスを安全に運転することは、
高度な技能である。

車体感覚。
内輪差。
死角。
ブレーキの癖。

これらは、
マニュアルを読めば身につくものではない。

経験と身体感覚の積み重ねが必要だ。

誰にでもできる仕事ではない。
実際、
大型免許を持っていても、
「路線バスの運転は無理だ」
と感じる人は多い。


ここまで挙げた要素を並べると、
この仕事が、

  • 身体的に楽
  • 精神的に軽い
  • 誰でも代替可能

とは、とても言えないことがわかる。

むしろ逆だ。

身体を拘束し、
神経をすり減らし、
高い責任を負い続ける仕事。

それが、
バス運転手という職業の現実だ。


にもかかわらず、
この仕事は、
しばしば軽く扱われる。

理由の一つは、
「事故が起きなかった日」が
可視化されにくいからだ。

何も起きなかった一日。
無事に運行が終わった一日。

それは評価されない。
ニュースにもならない。

だが、
その「何も起きなかった」は、
偶然ではない。

毎日の集中と判断と、
身体のコントロールの結果だ。


このリアリティを踏まえずに、
制度や処分の話だけを切り出すと、
どうしてもバランスを欠く。

1000円の着服という行為は、
確かに問題だ。

だが、
その行為が起きた場所が、
どのような身体的・精神的条件の上に
成り立っていたのか。

そこを見ずに語ると、
制度は現場から乖離していく。


次章3 制度設計と責任の所在では、
こうした現場の負荷を前提にしながら、
なぜ「着服できてしまう制度」が
あえて選ばれてきたのか

という、
制度設計の側の論理を見ていく。

個人の問題に見える出来事が、
どのようにして
構造の問題へとつながっていくのか。

その接続点を、
少し冷静に辿ってみたい。

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