現代文のN先生 ー第7話ー

問いを閉じない文学を、選び続けた人

振り返ってみると、
現代文の授業で扱われた作品群は、
どれも少しずつ、
同じ方向を向いていたように思う。

芥川龍之介の
蜘蛛の糸
羅生門
地獄変
戯作三昧

松尾芭蕉の
『奥の細道』。

三好達治の
『測量船』。

そして、
カフカの
『変身』。

星新一の短編も、
いくつか読んだような…。

当時は、
それぞれを
別々の作品として読んでいた。

文学史の流れとか、
作家の経歴とか、
そういう整理は、
正直あまり頭に入っていなかった。

けれど今になって、
こうして並べてみると、
はっきりしてくることがある。

どの作品も、
物語を「きれいには終わらせない」

という共通点を持っている。

「蜘蛛の糸」では、
救済は途中で断ち切られる。

なぜ、
糸は切れたのか。
誰が悪かったのか。

説明はない。

「羅生門」では、
善悪の基準が揺らぎ、
生き延びることだけが、
むき出しになる。

「地獄変」では、
芸術と倫理が、
無残な形で衝突する。

「戯作三昧」では、
創作そのものが、
人生を救わない。

どれも、
読後に
「なるほど」と
納得させてくれない。

答えをくれない。

それどころか、
問いを増やして、
こちらに返してくる。

カフカの『変身』も、
同じだ。

なぜグレゴールは
虫になったのか。

その理由は、
最後まで示されない。

世界は、
何事もなかったかのように
進んでいく。

そこにあるのは、
説明不能な変化と、
それを引き受けるしかない
生の姿だ。

松尾芭蕉の
『奥の細道』だけは、
少し雰囲気が違っていた。

長い旅の末に、
芭蕉は「わび」「さび」を超えて、
「軽み」に達した、
と教えられた。

当時、
その言葉には、
かすかな光のようなものを感じた。

ずっと曇天だった現代文の授業のなかで、
その時だけ
一瞬、空が明るくなったような感覚。

けれど、
それは
分かりやすい希望ではなかった。

「軽み」とは、
問題が解決された状態ではない。

むしろ、
重さを
そのまま引き受けたうえで、
それでも歩き続けるための
姿勢のようなものだった。

重たい問いが消えたわけではない。
ただ、
それを抱えたままでも
進めるようになった。

こうして見ると、
N先生の選書は、
かなり偏っている。

もっと、
感動的な作品もあったはずだ。
救いのある物語も、
分かりやすい教訓も、
選ぼうと思えば選べた。

それでも、
あえてこれらの作品を
教室に持ち込んだ。

それは、
文学を通して
「答え」を教えたかったからではない。

答えがない場所に、
どう立つか

を、見せたかったのだと思う。

だから、
あの授業はいつも少し、
居心地が悪かった。

安心できなかった。

でもその居心地の悪さは、
世界そのものの
居心地の悪さに、
どこか似ていた。

問いを閉じない文学を、
選び続けるということ。

それは、
N先生自身が、
問いを閉じない生き方を
選び続けている、

ということでもある。

次の話では、
その生き方が、
教室のなかで
どんな姿として
立ち上がっていたのかを、
もう一度、
静かに見てみたい。

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