1. 浮遊する責任と、微細なノイズ
グループLINEという閉鎖されたデジタル空間に、一通のメッセージが流れる。
「どなたか、今週末の鍵開け対応できますか?」
「支払い期限が迫っていますが、どなたか把握されていますか?」
名指しされているわけではない。責められているわけでもない。
しかし、その一文を見た瞬間、胸の奥がザワつき、落ち着かなくなる人々がいる。
なぜか自分だけが、その「空白」を埋めなければならないような、重い引力に捕らわれてしまう。
この現象には、まだ定まった社会的な名前がない。
しかし、あえて定義するならば、それは「共感性搾取」と呼ぶべき構造である。
2. 「高解像度モニター」が映し出すもの
なぜ、特定の「やさしい人」だけがこの引力を強く受けてしまうのか。
それは性格の良し悪しではなく、情報の「処理解像度」の差に起因するのではないか。
- 標準解像度: 「誰かやるだろう」と、空白をノイズ(背景)として処理する。
- 高解像度: 期限・状況・不足している実務を多軸的・多層的に立体把握する。
- 過剰解像度(エンパス的特性): 他者の気持ち、背景のストーリー、場が空気が凍りつくリスクなどを想像して、自分の痛みとして受信してしまう。
解像度が高いほど、見えなくていいものまで見えてしまう。
これは能力の高さゆえの「認知のオーバーロード」であり、個人の資質が「場を維持するための資源」として無自覚に吸い上げられる土壌となる。
こで言う「資源」とは、「やさしい人」の「時間」「精神的エネルギー」「集中力」のこと。
通常、インフラ(電気や水道)を維持するにはコストがかかるが、しかし、共感性が高い人がいる場では、「その人が察して動くこと」で、本来集団が支払うべきコスト(話し合い、当番制、外注費など)が肩代わりされてしまう。
3. 「透明化される献身と、認知の負債」
共感性の高い者は、問題が「問題」として顕在化する前の微細なノイズ(沈黙や停滞)を検知し、自ら補填する。
この高度な予測能力は、集団の摩擦を回避する「潤滑油」として機能する一方で、致命的な副作用を持つ。
摩擦が起きないために、集団は「誰がそのコストを支払っているか」を認識できなくなるのである。
資質は「能力」として称賛されるフェーズを通り越し、集団を維持するための「不可視のインフラ」へと埋没していく。
これは、個人の善意を燃料にして、集団が思考停止という負債を積み上げている状態に他ならない。
4. 共感性搾取のループ構造
「どなたか」という無記名の依頼が、特定の個人を捕縛(キャプチャ)するプロセスは、以下のステップで進行する。
- 欠落検知: 責任の空白を、集団の中で最も早く察知する。
- 内面シミュレーション: 他者の「できない理由」を自分のことのように再生し、納得してしまう。
- 痛みの同一化: 場が崩壊する痛みを自分の痛みとして引き受け、それを回避するために動く。
この構造の残酷な点は、「搾取する側に悪意がない」ことにある。
悪意がないからこそ、動き続ける本人の負担は「いつもの風景(=インフラ)」として透明化され、感謝や報酬というフィードバックさえも消失していく。
5. 「善意の逆選択」という現実
これは誰かを断罪するための議論ではない。
ただ、一つの構造的真実を提示する必要がある。
「善意が適切に管理(設計)されていない場では、共感性の高い人間から順に削られていく」
優しさや理解力は、本来は世界を豊かにする力である。
ルールがきっちり決まっている場であれば、ルールや役割分担という形で、一人に負担が集中することはない。
しかし、責任の所在が曖昧な集団においては、それは「無料で使い放題のエネルギー源」へと変質してしまう。
物理法則と同じで、エネルギーは高いところから低いところへ流れる。
共感性が高い(エネルギー密度が高い)人ほど、その真空を「埋めなければ」という強い圧力を受け、吸い寄せられてしまうのだろう。
本来、個人の能力や時間は、対価(感謝、報酬、交代、あるいは明確な役割)と交換されるべき「私有財産」だ。
しかし、設計のない集団では、共感性の高い人が提供するケアが「公共財(太陽光や空気のように、誰でもタダで使えるもの)」として扱われ始めてしまう。
一度「公共財」だと認識されると、周囲はそれを維持するためのコストを払う意欲を失います。
こうして、優しい人の貴重な資源は「使い放題のフリー素材」のように搾取されてしまう。
| 状態 | 善意のあり方 | 周囲の認識 | 代償(フィードバック) |
| 設計された場 | 私有財産(ギフト) | 「特別な貢献」 | 感謝・報酬・交代・敬意 |
| 設計のない場 | 公共財(インフラ) | 「あって当然の空気」 | 無反応・(不備への)不満 |
6. 境界線の再構築:誠実な撤退
共感性は、無限に提供すべき義務ではない。それは有限の資源であり、個人の主権によって守られるべき能力である。
「共感性搾取」という名前を付与することは、境界線を引くための第一歩となる。
現状を維持できなくなったとき、「相手を嫌いになる前に、自分の意志でその場を降りる」という選択は、逃避ではなく、自らの主権を回復するための極めて誠実な判断である。
「撤退は、場の崩壊を招く加害行為ではない。むしろ、他者に『責任の所在』を再認識させ、集団が自立的な設計を取り戻すための、最後のチャンスを贈る行為である。自分が『インフラ』であることを辞める時、初めてその場は、人間同士の相互補完的な関係へと戻る可能性を得るのだ。」