第5章|人生はマラソンで、AIは伴走車

―― 走らない文明が失ったもの

人生をマラソンにたとえると、少し古臭く聞こえるかもしれない。
でも、この比喩は、AI時代の感覚を整理するのに意外と役に立つ。

マラソンでは、走るのはあくまで自分だ。
どれだけ高性能なシューズがあっても、
どれだけ優秀なコーチがいても、
スタートからゴールまで、脚を動かすのは本人しかいない。

ところが今の社会では、
この「走る」という部分が、どんどん外部化されている。

効率化、最適化、代替。
気づけば、考えることも、選ぶことも、
さらには「やりたいかどうか」まで、
他人やシステムに委ねる設計が増えてきた。

その結果、何が起きているか。
多くの人が、走っていないのに、息切れしている。


走っていないのに、なぜ疲れるのか

本来、身体の疲労は、動いた結果として生まれる。
走れば息が上がるし、脚も重くなる。
それは自然な反応だ。

ところが現代では、
ほとんど身体を動かしていないのに、
「常に疲れている」人が少なくない。

理由のひとつは、
プロセスが省略されすぎていることにある。

本来なら、
考える → 試す → 失敗する → 調整する
という一連の流れがあって、
その中で身体は納得していく。

でも今は、
「最短ルート」
「正解だけ」
「失敗しない選択」
が先に提示される。

すると、結果だけが目の前に積み上がり、
自分がどこをどう走ってきたのかが、分からなくなる。

これは、
走っていないのに、
ゴールだけが近づいてくる感覚に近い。

身体が置き去りになるのも、無理はない。


AIは「走る代わり」にはならない

ここで、AIの話に戻ろう。

AIは、人生を代わりに走ってくれる存在ではない。
どれだけ便利でも、
あなたの代わりに迷ったり、立ち止まったり、
「もう一歩」を踏み出したりはできない。

それでも、AIには確かな役割がある。

それは、伴走車だ。

マラソンの伴走車は、
選手の横を走りながら、
水を渡し、状況を伝え、
必要ならペースを確認する。

でも、
「代わりに走ってあげる」ことはしない。

AIも同じだ。
考えを整理したり、
視点を増やしたり、
地図を広げることはできる。

けれど、
どの道を選ぶか、
どこで休むか、
どこでスパートをかけるかは、
身体の仕事だ。


他人に走らせる社会

問題は、
AIそのものではない。

「走ること」そのものを、
他人やシステムに委ねる文化
だ。

・親の期待に沿って走る
・会社の評価軸に合わせて走る
・SNSの空気に合わせて走る

これらはすべて、
自分の身体のペースとは別のところで、
コースが決められている。

その結果、
「頑張っているのに、どこにも着いていない」
という感覚が生まれる。

これは怠けではない。
むしろ逆だ。

自分で走っていない分、
身体はずっと緊張し続けている。


プロセスがあると、身体は納得する

不思議なことに、
遠回りでも、自分で選んだ道なら、
人は案外、疲れにくい。

失敗しても、
「まあ、そうなるよね」と腑に落ちる。

なぜなら、
身体がプロセスを通っているからだ。

前の章までで触れてきたように、
身体は、結果よりも経過に反応する。

呼吸が乱れ、整い、
肩に力が入り、抜ける。

その繰り返しの中で、
「生きている感じ」が立ち上がる。


生きている実感の正体

生きている実感とは、
成功している感覚ではない。

ましてや、
正解に近づいている感覚でもない。

それは、
「自分がいま、動いている」という感覚だ。

歩いている。
止まっている。
迷っている。
考えている。

そのどれもが、
身体を通っていれば、
ちゃんと生の手触りになる。

AIは、その横で、
静かに地形を照らしてくれる存在でいい。

次の章では、
その「地形を見る」という役割――
AIが得意で、人間が苦手な部分について、
もう少し具体的に話していこう。

走るのは、身体。
でも、地図を見るのは、案外しんどい。

そこにこそ、
AIの本当の使いどころがある。

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