― 失われた身体語彙を取り戻す
「最近、ちょっと体調が悪くて」
「ストレスですかね」
このやり取りは、あまりにも日常的だ。
便利だし、角も立たない。
それ以上、説明しなくて済む。
でも、どこかで思わないだろうか。
本当に、それだけだっただろうか?
お腹が痛い。
頭が重い。
胸がザワつく。
それを全部まとめて
「ストレス」
「体調不良」
と呼んでしまった瞬間、
大量の情報が、切り捨てられている。
お腹が痛い、は1種類じゃない
たとえば、「お腹が痛い」と一言で言っても、
・キリキリする
・ズーンと重い
・冷えて固まる感じ
・食後にだけ起きる
・朝は平気だが夜に出る
・人に会う前だけ出る
ざっと挙げるだけでも、
まったく違う状態がある。
原因も、対処も、意味も違う。
それなのに、
私たちはいつの間にか、
それらを一語にまとめてしまった。
これは、
語彙が足りないからではない。
使わなくなったのだ。
身体感覚は、整理されていない「情報の山」
第3章で見たように、
抽象は、説明責任を消す。
身体感覚においても、
同じことが起きている。
「ストレス」という言葉は、
便利な抽象だ。
誰のせいでもなく、
深掘りもしなくていい。
でもその代わり、
「じゃあ、どうする?」
という具体が消える。
身体は、
いつも何かを伝えている。
ただ、それを
雑にまとめられ続けた結果、
本人にも聞こえなくなっている。
こんまり的に、身体を見る
ここで役に立つのが、
少し変な比喩だが、
「近藤 麻理恵(こんまり)さん的な視点」だ。
体調が悪いときに、
いきなり
「人生の方向性」
「根本原因」
を探さなくていい。
まずは、
一つ一つ、手に取る。
この痛みは、
・どこにある?
・いつ強くなる?
・何をすると変わる?
良い・悪いを決めない。
意味づけもしない。
ただ、
「これはこれ」と分ける。
すると、不思議なことが起きる。
身体が、
少し協力的になる。
感覚を雑に扱う社会的コスト
身体感覚を雑に扱うことは、
個人の問題に見えて、
実は社会全体のコストでもある。
違和感が言語化されないと、
判断はいつも極端になる。
・限界まで我慢する
・突然、全部投げ出す
・理由が分からないまま壊れる
その隙間に、
「偽物のスピリチュアル(エセスピ)」が入り込む。
- 「原因は過去生です」
- 「マイナスのエネルギーが…」
- 「高次元の存在の宿題です」
- 「波動が乱れています!」
なぜ、
そうした説明が
魅力的に見えるのか。
それは、
本人が感じている
“何かがおかしい”
という感覚だけは、
すくい取ってくれるからだ。
でも、
具体を伴わない説明は、
結局、身体を置き去りにする。
身体語彙は、思考のブレーキでもある
身体語彙が増えると、
何が起きるか。
まず、
考えが暴走しにくくなる。
「なんとなく不安」
ではなく、
「胸の奥が詰まる感じ」
と分かれば、
無理な結論を急がなくなる。
それは、
弱くなることではない。
踏みとどまれるようになる。
AIを使うときも同じだ。
言葉が詰まったら、
無理に整理しなくていい。
「いま、胃が重い」
「読むのがしんどい」
それだけで、
十分な情報だ。
次の章へ
この章で伝えたかったのは、
「身体を大事にしよう」
という精神論ではない。
身体には、
思っている以上に
具体的な情報がある
という事実だ。
次の章では、
その情報を無視し続けた文明が、
何を失ったのか。
そして、
なぜ人生が
「急がされるもの」
になってしまったのかを、
マラソンの比喩で見ていく。
走っている感覚を、
取り戻すために。