たまに、ふと考える。
自分には、何ができるんだろう・・・
何を作れているんだろう?って。
正直に言うと、
パソコンの内部の仕組みは分からない。
バドミントンのラケットやシャトルも、作れない。
スマホも、時計も、家電も、コピー用紙も、鉛筆一本、消しゴム一つだって、何もかも、ぜんぶ「使う側」。
世の中にあるモノのほとんどは、
誰かが長い時間をかけて、
精緻に、真面目に、積み上げてきた学問や技術の結晶だ。
それを自分は、
便利だなあ、ありがたいなあ、って使っているだけ。
だから、たまに、ちょっと恥ずかしくなることもある。
既存学問のすごさを、私は疑っていない
勘違いしてほしくないんだけど、
ぼくは学問を軽く見ているわけじゃない。
むしろ逆。
物理、数学、医学、工学、哲学、心理学……
そういう世界がなかったら、
いまの生活は一瞬で崩れる。
時計が正確だから時間が分かるし、
パソコンが動くから仕事ができるし、
バドミントンを楽しめるのも、
ラケットとシャトル(や、シューズやウエアや、体育館の床や照明、それらを支える施設管理、物流、社会インフラ、それにかかわるすべての人の暮らし・・・何もかも)が「すばらしく、よくできている」から。
それを一つひとつ分解して、
仕組みを調べて、
理論にして、
ちゃんと「使える形」にしてきた人たち。
本当に、すごい。
それでも、ふと残る違和感
でもね。
時計を見ながら、
パソコンで文章を書いて、
合間にバドミントンで汗をかいているとき。
ふと、思うことがある。
「これら全部、同時に一人の身体の中で起きてるよな?」って。
時間を気にする自分も、
文章を考える自分も、
ラケットを振ってる自分も、
全部、同じ「身体(からだ)」だ。
でも、その「全部を同時に生きている感じ」って、
どの学問にも、あんまり書いてない。
俯瞰する人も、必要なんじゃないか
学問って、どうしても専門に分かれていく。
それは必要だし、正しい。
でも分かれたままだと、
- 情報だけが先に走ったり
- 身体が置き去りになったり
- 世界がちょっと息苦しくなったりする
こともある。
だからたぶん、
分解する人とは別に、俯瞰する人も必要なんだと思う。
全部を完璧に理解できなくてもいい。
作れなくてもいい。
ただ、
- いま何が同時に起きているか
- どこに偏りが出ていそうか
- 身体は、ちゃんとついてきているか
を、静かに見ている人。
だから、ベクトラブをやっている
ベクトラブは、
「正解を教える場所」じゃない。
学問を否定する場所でもない。
ただ、
- 時間と身体
- 情報と呼吸
- 思想と日常
が、もう一度つながり直すための、
通路みたいな場所。
専門家じゃないからこそ、
生活者として、身体のまま、
俯瞰して眺めることができる。
それが、
今の自分にできる役割なんだと思っている。

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