今日は、少し立ち止まって考えてみたいことがある。
スピリチュアルの世界では、こんな言い方をされることが多い。
「誰もが自分自身の意思をもって、 自分自身の宇宙を主役として生きている」
もし、これが本当だとしたら──
自分の外に、正解はない。
ということになる。
それなのに。
それなのに、
「あなたが主役だということこそが真理であり、正義であり、正解だ」
と、どこかで人に教えたくなってしまう人が、 案外たくさんいるような気がする。
「教え魔」とか「正義中毒」と呼ばれることもあるけれど、 今日はそれを断罪したいわけではない。
ただ、
なぜそんな衝動が立ち上がるのだろう?
と、ふと思った。
それを書き留めておきたい。
結論を先に言うと
「自分が主役」という理解と、 「他人を教えなきゃ」という衝動は、 そのままでは両立しない。
だから多くの場合、 そのあいだに何らかの翻訳装置が挟み込まれる。
いいわけ①
「教えているのではなく、思い出させているだけ」
これは、とてもよく使われる言い回しだ。
言い方としては優しいし、角も立ちにくい。 でも、ここにはちゃんと“仕掛け”が入っている。
まず、「教える」という言葉には、どうしても上下が生まれる。
- 先生/生徒
- 正しい側/学ぶ側
- 分かっている人/分かっていない人
こういう非対称が、言葉の時点で立ち上がる。
一方で、「思い出させる」という言い方に変えると、空気が変わる。
- もともと相手も“知っていた”
- ただ一時的に忘れているだけ
- だから私は、上から教えるのではなく、そっと指差すだけ
という形になる。
つまり、こういう変換が起きている。
- 教える → 「相手は知らない。私は知っている」(上下が発生する)
- 思い出させる → 「相手も本当は知っていた」(対等っぽく見える)
この変換を入れると、発信者は二つのことを同時にできる。
- 『誰もが主役(=外に正解はない)』という前提を壊さずに
- それでも自分が“相手に伝える役”として発信を続けられる
要するに、
「上から教えるつもりはないよ」と言いながら、 実際には“方向づけ”は続けられる
という状態になる。
この言い回し自体が悪い、という話ではない。 ただ、ここで言いたいのは、
矛盾が消えたわけではなく、 “矛盾が見えにくくなっただけ”
ということだ。
でも、身体レベルでは何が起きているか
言葉の上ではきれいに整っていても、 感情や衝動のレイヤーでは、こんな反応が起きやすい。
- 「まだ分かっていない人」を見て反応する
- 苛立ちや焦り、使命感が湧く
- それを「優しさ」「愛」「目覚め」と言い換える
つまり、
教えたい衝動を、 「教えていないことにする」
という自己調停が行われている。
いいわけ②
「私は流れているだけ」「やらされているだけ」
もう一つ、よく見かけるいいわけがこれだ。
- 自分がやっているわけではない
- 何か大きな流れがそうさせている
- だから仕方がない
この語りを使うと、
- 教えたい衝動
- 伝えたい欲
- 認められたい揺れ
を、自分の責任から切り離すことができる。
ただし、このことを言ってしまった瞬間に何が起きるか。
良い面としては、「教えたい」「伝えたい」「認められたい」という衝動を、自分の欲として認めず、「大きな流れ」として処理することで、罪悪感や、恥ずかしさを減らすことができる。
でも「主役のはずの自分と、自分より大きな流れに主役の座を明け渡した自分」という矛盾に陥ってしまう。
じゃあ、どう折り合えばいいのか
正直に言うと、 理屈の上では方法はある。
それは、
「教えたい」という衝動が湧いた瞬間に、 「あ、今“正しさの構造”が立ち上がったな」 と内側で処理して、 外に出さないこと。
この地点に立つと、
- 発信は「伝えたい」ではなく「溢れたら出る」になる
- 伝わらなくても、あまり何も起きない
- 怒りや使命感の音量が下がる
ただし、
- 静かで
- 地味で
- 孤独
そして、 周りから評価されなくなる。
だから、多くの人は途中で戻る
- ある程度の気づきはある
- でも孤独はつらい
- だから「伝える役割」に戻る
これは、 弱さというより人間らしさだと思う。
たっくん日記としての結び
この文章を書いている自分自身も、教えたくなる衝動に駆られることもあるし、正しさを語りたくなる瞬間もある。
「外に出さないことが正解」と言いながら、こうしてブログを「書いている」こと自体が、ある種の発露であり、微弱ではあるが「教え」になり得るのだろう。

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