覚悟はどこにあるのか
最近、ふと思ったことがある。
X(旧Twitter)を見ていて、あるポストに対してコメントを書くとき。
AIにそのポストを読ませて、「いい感じのコメント」を生成して、それをそのまま貼ることはもう普通にできる。
で、技術的にはほぼ見分けがつかない。
じゃあ、これって倫理的にどうなんだろう?
将来、AI生成コメントを弾くフィルタリングは実装されるんだろうか?
——そんなことを考えていたんだけど、途中で、論点がズレていたことに気づいた。
問題は「AIかどうか」じゃなかった
よく考えると、今のネット空間って、すでにカオスだ。
- 人間が書いているが、コピペみたいなどうでもいいコメント
- 脊髄反射で書かれた浅い罵倒
- AI生成のコメントなのに、人間っぽい温度感を持ったコメント
- 下書きをAIで生成し、人間が少し直したコメント
など。
もう、「人間/AI」で線を引く意味はほとんどないのだろう。
じゃあ、何が違いを生むのか?
それは、
そのコメントに対して返ってきた反応を、引き受けられるかどうか
なんじゃないかと思った。
コメントの強さは「その後」で決まる
今は、「面白いコメント」「気の利いたコメント」「刺さる一言」ばかりが評価されがちだ。
でも、本当の意味で、そのコメントを書いた人の「強さ」は、その返ってきた反応にどう向き合えるかにある。
- 反論されたとき
- 怒られたとき
- 誤解されたとき
- 誰かを傷つけてしまったとき
その全部を含めて、
「それでも、これは自分の言葉だ」
と逃げずに言えるかどうか。
覚悟とは何か
ここで、言葉の意味が一段深くなる。
覚悟って、メンタルが強いとか、炎上耐性があるとか、そういう話じゃない。
もっと冷たくて、現実的な定義。
自分の身体・時間・財産が棄損してもいい
という覚悟。
体調を崩すかもしれない
時間を奪われるかもしれない
信用を失うかもしれない
仕事や生活に影響が出るかもしれない
それでも、その言葉を出すと決めること。
それが覚悟だ。
だからAIは「覚悟」を持てない
AIは、どれだけ人間らしい文章を書いても、
- 眠れなくならない
- 評価が下がらない
- 人間関係が壊れない
- 人生に傷が残らない
つまり、棄損の主体になれない。
だから最終的な責任は、どうやっても人間側に残る。
AIが9割書いた文章でも、AIが全部書いたコメントでも、
その結果を引き受けるのが人間なら、それは「人間の言葉」になる。
逆に、引き受ける気がないなら、どれだけ人間らしくても、それは借り物だ。
最後に
これから先、AIか人間か分からない世界コメントも文章も見分けがつかない世界は、ほぼ確実に来る。
でも、その中でも残る問いは、たぶん一つだけ。
この言葉で、損をするのは誰か?
誰も損しない言葉は、安全で、最適化されていて、無害だ。
でも、誰かが損をする可能性を引き受けている言葉だけが、「人間の言葉」になる。
AIを使うかどうかより、その言葉の運転席に誰が座っているか。
今は、そこが一番大事な気がしている。

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