音に性格が出る、という感覚について
先日書いた話の続きを、今日はもう少しだけ。
あの記事に対して、
「音って性格が出ますよね、音楽関係者の間ではよく言われます」
という反応をもらった。
たしかに、演奏を聴いていると「この人はこういう人なんだろうな」と、言葉になる前に感じてしまうことがある。
でも、性格って何だろう、と改めて考えた。
たぶん、「性格」という言葉でまとめられているものの多くは、
身体が世界に対して取る「無意識の構え」、あるいは、「生存戦略の履歴」
のようなものなのだと思う。
同じ音を聴いても、どう響くかは人によって全く違う。
同じ言葉を投げられても、すっと腑に落ちる人もいれば、なぜか腹が立つ人もいる。
私たちは、理解したり納得したりするということは、頭脳の演算ではなく、腹や肝に「ストンと落ちる」身体的な出来事だと知っている。
日本語を見ていると、それは昔から分かっていた当たり前のことなのだと思う。
「腑に落ちる」「肝が据わる」「頭にくる」「腹が立つ」「目からウロコが落ちる」。
思考や感情を、ずっと身体の出来事として表現してきた言葉が、普通に残っている。
そう考えると、「音に性格が出る」という感覚も、比喩というより、かなり文字どおりの話なのかもしれない。
音は、演奏者の身体を通って外に出てくる。
身体が違えば、音の輪郭が違ってくるのは、むしろ自然なことだ。
ソロとアンサンブルは、身体の使い方が違う
ここで、もう一つ気になったのが、「ソロで演奏すること」と「オーケストラや吹奏楽で演奏すること」の違いだ。
ソロの場合、理想的な音を、自分の身体を通して外に出す、ほぼ一方向の作業に近い。
自己の理想を外部へ「閉じた精度」で出力する行為が、ソロ演奏だと思う。
一方、アンサンブルは、他者の音を体内に取り込み、絶えず調整し続ける「開かれた応答性」が求められる。
身体を外に「開く」ことが得意な人もいる。
内に「閉じて」集中力を極めることで真価を発揮する人もいる。
この違いは、単なる技術の差ではなく、
身体のデフォルト設定に関わるものではないだろうか。
誰一人として、同じ設計図の人はいないのだから。
指導は、身体性を無視していないか
ただ、指導の現場では、その違いがあまり意識されていないようにも思う。
もし、指導が「先生の成功体験」という一つの型を強制するものだとしたら、
それは生徒から「その人自身の音」を奪ってしまうことにならないだろうか。
「先生がうまくいったやり方」を、そのまま生徒に当てはめてはいないか。
ズレが出たとき、それを「努力不足」や「理解力の問題」として処理してはいないか。
演奏方法が身体の使われ方そのものだとしたら、
人それぞれに「その身体に合ったやり方」があって、
簡単には変えられない部分もあるはずだ。
唇の厚み、骨格、呼吸の癖、神経の反応の速さ。
それらを無視したまま「正しい型」だけをなぞらせると、
音だけでなく、演奏そのものが苦しくなってしまう気もする。
もちろん、型や伝統があるからこそ、音楽は受け継がれてきた。
ただ、その型をどう通るかは、本当はもっと多様でいいのかもしれない。
音楽の話だけでは終わらない
音に性格が出る、という言葉の裏には、
「身体は一人一人違う」という、当たり前だけれど見落とされがちな前提がある。
だからこそ、正解を決める前に、まずその違いに気づけたら、
音の聴こえ方も、教え方も、少し変わってくるのではないか。
この問題は、音楽に限らない。
会社組織における「正しい働き方」、家庭における「あるべき姿」。
私たちは、いかにして「型の強要」から、
個々の身体性を解放できるのだろうか。
今日はそんなことを、ぼんやり考えていた。

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