音が鳴る前の緊張と、AIには持てないノイズの話

12月13日に放送されたNHK Eテレ「ドキュメント 第94回日本音楽コンクール〜フルート部門〜」を観た。正直なところ、最初は「音楽番組だな」くらいの気持ちで再生した。でも、観終わったあと、しばらく動けなかった。画面を消しても、身体のどこかがまだ鳴っている感じが残っていた。

それは、「演奏が上手だった」とか「若い人が頑張っていた」という感動とは少し違う。もっと静かで、言葉になる前に身体に届くものだった。

この日記では、その正体を無理にまとめたり、評価したりせずに、少しだけ立ち止まって眺めてみたい。番組の編集やテンポという“つくり”の話と、フルート奏者の身体の内側で起きていたこと。

「緊張する」とは何なのか、「上手い演奏」とは何なのか。音楽そのものではなく、音が鳴る直前の、あの張りつめた空気に、そっと触れてみたい。


考察:身体・上手さ・緊張の正体

1. フルート奏者は、身体を通じて何をしているのか

フルートの演奏は、唇の制御、指の速さや肺活量だけの話ではない。それらは結果として外から見えるもので、実際にはもっと手前で何かが起きているのではないか。

奏者の中には、まだ鳴っていないけれど、確かに「こう演奏したい、フルートがこう鳴ってほしい、音をこう響かせたい」という感触がある。その曖昧で繊細なイメージを、呼吸や姿勢、唇や指先を使って、少しずつ外の世界に運んでいく。それが演奏なのだと思う。

音はフルートの中から出てくるというより、奏者の身体全体の緊張と緩みの間から、そっと立ち上がっているように見えた。音を生み出す行為は、呼吸そのものである。呼吸は吐く行為であると同時に、生きたいと吸い込む行為の極限である。奏者は、楽器を媒体としてその生と死の緊張を世界に差し出しているのかもしれない。

2. 「上手い」とは何か──ズレの少なさとしての美

上手いフルート奏者とは、ミスが少ない人、というだけでは足りない気がする。聴いていて「そう、これだ」と聴き手の身体そのものが「うなずく」瞬間があるかどうか。その差は、聴き手の中にある理想的な音と、実際に鳴った音とのズレの小ささなのかもしれない。

その理想的な音は、楽譜にも、審査基準に明確に書いてあるものではないだろう。審査する者、そして聴衆それぞれの身体の中に、ぼんやりと共有されている感覚だ。それは「文化的な集合知」あるいは「身体的な共鳴」とも言えるかもしれない。上手い演奏とは、その曖昧な基準に、音がふっと重なる瞬間を生み出すことなのだと思う。

3. なぜ緊張するのか──正解が内側にあるか、外側にあるか

番組の中で、奏者たちはこんな言葉を口にしていた。「負けず嫌いです」「他の若手の演奏がすごい」「自分の音が汚くて悩んでいた」「1位になりたい」「毎日カラオケボックスに通うのが恥ずかしかった」。どれも切実で、努力の痕跡でもある。

ただ、それを聞きながら、少しだけ胸に引っかかるものもあった。音そのものより、「他人の目」や「評価」の位置が、少し前に出すぎてはいないだろうか、という感覚だ。

コンクールは評価される場で、ある意味では戦場でもある。勝ち負けを意識するのは当然だ。それでも、もし演奏の動機が、親や周囲の期待、環境の流れ、あるいは「たまたま上手だったから」始まり、褒められ、勝ち残ってしまった結果として続いているのだとしたら──その人の歩む道の険しさは、想像に難くない。

正解が常に外側に置かれていると、音を出すたびに、理想像とのズレを確認することになる。内側から自然に鳴らしたい音よりも、「正しいとされる演奏」をなぞることに意識が向き、身体はずっと見張り役を続ける。その緊張は、失敗への恐れというより、期待に応え続けなければならない重さから生まれているように見えた。

それでも彼らは舞台に立ち、音を出す。そのこと自体が、途方もない練習量と努力を物語っている。内発的でなかったとしても、あの極限の場で崩れずに演奏できることは、それだけで敬意に値する。

ただ同時に、こんな問いも浮かんだ。もし演奏が「理想的な演奏を失敗しないようになぞる」方向に強く寄っていたら、その緊張感は、聴き手の身体にも伝わるのではないか。上手い演奏なのだけれど、どこか身を預けきれない。音に完全には沈み込めない。そんな感覚が、言葉になる前に共有されているのかもしれない。

日本のトップクラスになれば、素人目には技巧そのものに大きな差はないように感じられる。それでも音の伸びやかさや美しさに違いが出るとしたら、それは音が通る道の違いなのだろう。

理想的な「音」そのもの → 奏者の身体 → 呼吸 → 唇 → フルート → 空間 → 聴き手の身体 → 聴き手の中の理想的な音。

この流れのどこかに、「こうあるべき」「勝つために」といった意味づけのノイズが入り込むかどうか。その差が、音の届き方を左右しているように思えた。

もちろん、そのノイズこそが文化であり、継承でもある。ただ、コンクールという極限の場では、それをどこまで薄くできるかが、ひとつの分かれ目になるのかもしれない。音がまっすぐ届くためには、余計な意味をいったん手放す勇気が必要なのだろう。


余韻として

たぶん、1位になった人も、そのノイズから完全に自由ではない。世界一と呼ばれる人であっても、きっと同じだ。

思い出したのは葛飾北斎の話だ。90歳で亡くなる直前、「自分は本当の絵描きになれなかった。時間が足りなかった」と語ったという。極めた人ほど、完成ではなく、まだ先を見ているのかもしれない。

そう考えると、コンクールの順位や結果は、ほんの通過点なのだと思えてくる。演奏する人も、聴く人も、それぞれの宇宙の中で、生まれてから死ぬまで、少しずつ何かを磨き続けている同朋である。

ふと、AIのことも思った。
AIはノイズを持たない。
だからこそ、コンクールで「優勝する音」を鳴らすことは、たぶんできないのだと思う。

ノイズにまみれながら、それでも音を澄まそうと願うこと。
その不完全さそのものが、人間の美しさなのかもしれない。

あの舞台に立っていた若いフルート奏者たちも、たぶん私も、その途中にいる。ただ、場所も速度も違うだけで、それぞれのノイズと向き合いながら。

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