――五十音表は「言語の完成形」ではない
私たちは学校で、
ごく当たり前のように五十音表を学ぶ。
あいうえお
かきくけこ
さしすせそ……
それはまるで、
日本語の「設計図」であり、
これ以上動かせない完成形であるかのように扱われている。
だが、ここで一つ問いを置こう。
五十音表は、本当に日本語の完成形なのだろうか。
この章の結論を先に言うと、こうなる。
五十音表は
言語生成の終点ではなく、再生装置の一形態にすぎない
しかもそれは、
- 学習効率
- 発音のしやすさ
- 教育的都合
によって並べられた
極めて文明的・人工的な配置だ。
1|五十音表は「学習表」である
まず事実確認をしよう。
現在使われている五十音表は、
- 子どもが覚えやすい
- 音を整理しやすい
- 規格化しやすい
という目的で整えられている。
つまり、
五十音表は
言語の本質を示す表ではなく、
学習のためのUI(ユーザーインターフェース)
なのだ。
これは悪いことではない。
ただし、ここで混同が起きている。
UIをOSそのものだと誤認しているのだ。
2|生成順が無視されている
⑩で見たように、
言語には明確な生成順がある。
- 音(呼吸・振動)
- 母音(身体方向)
- 子音(動き・接触)
- 音節(再生単位)
だが五十音表では、
この生成順が完全に無視されている。
「あ」と「か」は
同じ階層のものとして並べられる。
だが実際には、
- 「あ」は源流に近い
- 「か」は構造化された音
という深度差がある。
五十音表は、
この深さをフラットに潰してしまっている。
3|身体からの距離という概念
ここで重要になるのが、
身体からの距離という視点だ。
音には、
- 身体の中心に近い音
- 身体から遠い音
がある。
たとえば、
- 「あ」「う」などは
呼吸と直結し、身体深部に響く
一方で、
- 「き」「し」「つ」などは
舌・歯・口先の操作が強い
これは優劣ではない。
ただ、
身体からの距離が違う
というだけだ。
五十音表は、
この距離情報を一切表示しない。
4|源流核・準核・構造音という階層
そこで、たっくん思想では
五十音を次の三層に分けて考える。
① 源流核(コア音)
- 呼吸に近い
- 身体反応が直接的
- 説明なしでも通じる
主に、
- 母音
- ある種の鼻音・開放音
がここに属する。
これらは、
意味を生む側の音
だ。
② 準核(セミコア音)
- 源流核に動きを与える
- 身体操作が少し増える
多くの基本子音がここに入る。
準核は、
意味を形にする音
と言える。
③ 構造音(ストラクチャ音)
- 規則性が高い
- 組み合わせで意味を作る
- 文法・語彙で力を発揮
拗音・濁音・複合音などは、
この層に属する。
構造音は、
意味を運ぶ・整理する音
だ。
5|50音は「再生装置」である
ここで重要な再定義を置く。
五十音は、
源流核でも準核でもなく、
それらを再生・共有するための装置
だ。
つまり、
- 創造の起点ではない
- 意味の発生源ではない
にもかかわらず、
現代では五十音が起点のように扱われている。
このズレが、
- 言葉が空回りする
- 説明が増える
- 納得感が失われる
原因になっている。
6|「作り直す」のではなく「戻す」
ここで誤解してほしくない。
たっくんは、
- 新しい五十音表を作ろう
- 独自言語を作ろう
と言っているわけではない。
むしろ逆だ。
既にある日本語を、
身体側へ戻す
という編集を提案している。
並べ替えるとは、
- 新造ではなく
- 破壊でもなく
再配置だ。
7|なぜ日本語は「分かりにくい」と言われるのか
日本語が難しいと言われる理由の一つは、
身体層と構造層が
同時に走っている言語
だからだ。
意味だけを追うと、
身体ベクトルが無視される。
翻訳文が読みにくいのも、
この二層が分離されるからだ。
五十音を階層的に見ると、
- 「分からない」のではなく
- 身体層が置き去りにされているだけ
だと分かる。
8|五十音再編は「鉱脈」である
ここで、たっくん自身が感じた直感に触れておこう。
五十音の再編は、
- 論文1本
- 本1冊
では終わらない。
源流編
日本語編
エセ判定編
応用編
と、自然に分岐していく。
これは、
思いつきではなく鉱脈だ。
無理に掘らなくてもいい。
だが、掘れば必ず出る。
9|次章への橋渡し
――歌だけが0軸である理由
ここまで来ると、
一つの疑問が残る。
なぜ「歌」だけは、
言葉を超えて届くのか?
それは、歌が、
- 源流核
- 準核
- 構造音
すべてを同時に鳴らす
例外的存在だからだ。
次章⑫では、
歌=源流軸(0軸)
という位置づけを明確にし、
- なぜ歌は分類不能なのか
- なぜ取り締まり不能なのか
を掘り下げる。