──封印された駆動力と「即ヌキ社会」の正体
性は、
語るだけで空気が変わるテーマだ。
誤解されやすく、
極端に振れやすく、
すぐに道徳や規制の話になる。
そのため多くの場合、
性はこう扱われてきた。
- 個人的な欲望
- コントロールすべき衝動
- 下半身の問題
- 公に語るべきでないもの
⑥では、
この扱いそのものを疑う。
ここで扱う性は、
行為や嗜好の話ではない。
性とは、文明を動かしてきた
もっとも根源的なエネルギー回路である。
性は「快楽」よりも前にある
性という言葉を聞くと、
多くの人は「快楽」を思い浮かべる。
だが順序は逆だ。
性があるから快楽が生じる。
性の本質は、
- 気持ちよさ
- 刺激
- 解放
ではなく、
生命が、
外に向かって開こうとする力
にある。
- 触れたい
- 近づきたい
- 混ざりたい
- 生み出したい
この衝動は、
生殖以前に存在している。
性と創造は同じ回路にある
人が、
- 何かを作る
- 表現する
- 深く没頭する
- 誰かと本気で向き合う
とき、
身体のどこかが熱を持つ。
多くの場合それは、
- 下腹
- 仙骨
- 背骨の中心
といった、
性エネルギーの起点と重なる場所だ。
つまり性は、
- 生殖のための特殊機能
ではなく、 - 創造・関係・表現を駆動する基礎エネルギー
である。
三兄弟構造と性の役割
人間の内側には、
- 善悪(判断)
- 幸福(快・不快)
- 自我(私)
という「三兄弟構造」がある。
この三つは、
日常生活を安定させるために必要だ。
しかし、
これらが固定されすぎると、
- 判断が硬直し
- 幸福が条件化され
- 自我が肥大する
性エネルギーは、
このうち 自我を一時的に溶かす。
だから性は、
- 創造性を生む
- 芸術を生む
- 祭りを生む
同時に、
危うさも持つ。
なぜ性は管理されてきたのか
文明史を見渡すと、
性は常に管理対象だった。
理由は明確だ。
性は、
即時的・個人的・制御不能だから。
- 国家
- 宗教
- 労働
- 組織
と、
最悪の相性を持つ。
性が自由に流れると、
- 人は役割を忘れ
- 序列が揺らぎ
- 命令が効かなくなる
そのため文明は、
性を「地下」に押し込めた。
封印の方法は「禁止」ではない
ここで重要なのは、
性が単純に禁止されたわけではない点だ。
近代以降の文明は、
もっと洗練された方法を使った。
それが、
即ヌキ化である。
即ヌキ社会とは何か
即ヌキとは、
単なる性的行為の話ではない。
それは、
エネルギーを循環させず、
即座に排出してしまう文明設計
を指す。
- 深まらない
- 熟さない
- 余韻が残らない
この構造は、
性に限らない。
- 即レス
- 即消費
- 即承認
- 即解決
すべて同型だ。
なぜ即ヌキは都合がいいのか
即ヌキ構造は、
統治側にとって非常に都合がいい。
なぜなら、
- エネルギーが溜まらない
- 創造に転化しない
- 共同体が生まれない
人は、
- 一人で完結し
- すぐ疲れ
- すぐ次を求める
これにより、
- 労働
- 消費
- 管理
のループが安定する。
性エネルギーが歪むと何が起きるか
性は消えない。
行き場を失った性エネルギーは、
- 権力欲
- 支配欲
- 承認欲
- 競争
- 攻撃性
に変換されやすい。
これは道徳の話ではない。
エネルギー保存の話だ。
性を「野放し」にする話ではない
ここで誤解を避けたい。
⑥は、
- 性を解放しろ
- 規範を壊せ
という主張ではない。
それは別の暴走を生む。
⑥が言いたいのは、
性エネルギーを
循環させる設計が必要だ
ということだ。
弥勒文明における性の再配置
弥勒文明とは、
性を隠さない文明でも、
暴走させる文明でもない。
性を、
身体・感情・創造・関係へ
正しく流す文明だ。
- 即排出しない
- 熟成させる
- 表現に変える
- 共同性に変える
これは倫理ではなく、
設計の話である。
性と身体の接続
⑤で扱った身体は、
性エネルギーの通り道でもある。
身体を無視して
性だけを語ると、
必ず破綻する。
だから⑥は、
次の⑦へと接続される。
⑥の位置づけ
⑥は、
- ⑤ 身体
- ⑦ 身体波紋OS
- ⑧ メンドク星
すべての駆動源に位置する。
ここを外すと、
- 文明論は空転し
- AI論は抽象化し
- 人間論は道徳化する
小さな結論
⑥の結論は、
過激ではない。
ただ一つ。
性は、
管理すべき問題ではなく
設計すべきエネルギーである。
文明がこれを誤ると、
どれほど賢くなっても、
どこかで歪む。
⑥は、
その歪みの根に触れる章だ。