夢と現実は、なぜこんなにも違うのか
夢の中では、空を飛び、急に場面が切り替わり、亡くなった人と普通に会話をする。物理法則も時間の流れも、現実とはまるで違う。それにもかかわらず、夢を見ている最中、私たちはそれを「おかしい」とは感じない。
目が覚めたあとで初めて、「あれは夢だった」と気づく。この事実は、夢と現実の違いが単なるリアリティの強弱ではなく、役割の違いであることを示している。
世界は「編集点」を持っている
①〜③で見てきたように、世界は観測点を通して立ち上がる。ここにもう一つ重要な装置がある。それが「編集点」だ。
現実では、視覚・聴覚・触覚・内臓感覚など、複数の入力が同時に流れ込み、それらが一定のフレームで統合されて「今」が編集される。この編集点が働くことで、私たちは一貫した現実を生きている。
夢のとき、外界からの入力シャッターはほぼ閉じられる。しかし編集点そのものは停止しない。素材がほとんど入ってこない状態で、編集だけが動き続ける。これが夢の正体だ。
夢とは「素材なしの編集」である
夢は、外界入力を素材としない。代わりに使われるのは、過去に記録された身体ログや世界ログだ。記憶、感情、イメージの断片が呼び出され、編集点によって即興的につなぎ合わされる。
そのため夢では、空間が歪み、因果関係が飛び、意味ジャンプが頻発する。これは異常ではなく、編集点が本来持っている自由度が、そのまま表に出た状態だ。
明晰夢とは何が起きているのか
明晰夢は、夢の中で「これは夢だ」と自覚している状態だと説明されることが多い。しかし構造的にはもう少し違う。
明晰夢とは、編集点そのものを観測対象として自覚している状態だ。素材を操作しているのではなく、「編集している自分」を編集している。
これは現実ではほぼ不可能な二重構造であり、意識がどこにあるのかという問いを、強烈に揺さぶる体験でもある。
現実の役割:記録
では現実は何をしているのか。現実の主な役割は「記録」である。
現実では、外界入力が常に流れ込み、身体ログと世界ログが蓄積されていく。重力、時間、因果関係といった制約は、この記録を安定させるための枠組みだ。
現実が退屈に感じられることがあるのは、編集の自由度が低く、記録優先モードで動いているからだ。しかしこの退屈さがなければ、夢は成立しない。
なぜ人は眠るのか
睡眠は休息のためだけにあるのではない。睡眠とは、記録モードから編集モードへ一時的に切り替えるための装置だ。
もし人が眠らずに記録し続けたら、編集点は過負荷を起こす。夢は、編集点が溜まりすぎたログを整理し、再接続するための作業とも言える。
死とは何か
この枠組みで見ると、死の位置づけも変わってくる。死は、編集点そのものが停止する出来事だ。
夢は一時停止であり、現実は記録の継続であり、死は編集不能な最終保存である。死によって「その人としての編集」は完全に終わる。
これは恐ろしい話ではない。むしろ、役割分担がはっきりすることで、死は意味を持つ。
なぜ死は直接観測できないのか
人は自分の死を直接体験することができない。これは偶然ではない。編集点が停止する瞬間を、編集点自身が観測することは原理的に不可能だからだ。
この構造は、①で述べた「宇宙が自己を直接観測できない」問題と同型である。死が常に他者の出来事としてしか現れないのは、構造上の必然だ。
死後の世界という問いの位置
死後の世界があるかどうかという問いは、多くの議論を生んできた。しかしこの理論では、その問い自体を少し横に置く。
重要なのは、死後に何があるかよりも、死がどの役割を担っているかだ。役割としての死を理解すると、生と夢の位置づけも自然に定まる。
生きることの再定義
生きるとは、完成に向かうプロセスではない。記録と編集を往復しながら、観測点として稼働し続けることだ。
夢で自由になり、現実で縛られ、やがて死によって確定する。この三つは対立ではなく、ひとつのシステムとして噛み合っている。
次につながる問い
もし夢・現実・死が役割分担されたシステムだとしたら、私たちはどこまで編集点に関与できるのだろうか。身体や意識の使い方を変えることで、この往復の質は変えられるのか。
次は、この編集点ともっとも密接につながっている装置──「身体」について、さらに踏み込んでいく。