きつい仕事の身体への痛みは、誰のものなのか

導入|なんとなく感じている「遠さ」

最近、自分で選んで生きている感じが、少し薄くなった気がしている。
生活は回っている。
仕事もある。
毎月の支払いも滞っていない。
それなのに、どこかで身体だけが置いていかれているような感覚がある。

何かを決めているはずなのに、
その「決めた感じ」がしない。
決まりごとや方針が、
いつの間にかどこか遠くで決まっていて、
自分はそれを受け取って実行しているだけ、
という感触が残る。

これは特別な人の話ではないと思う。
政治でも、仕事でも、生活のルールでも、
「仕方ない」「そういうものだから」という言葉が、
以前よりずっと自然に口から出てくる。

この違和感は、怠けているからでも、考えが足りないからでもない。
むしろ、判断と身体の距離が、少しずつ遠くなってきた
その結果として、誰にでも起きている感覚なのではないかと思う。


AIは、実はとても「重たい」存在だった

AIという言葉には、どこか軽さがある。
クラウドの向こうから、すぐに答えを返してくれる賢い存在。
ボタン一つで呼び出せる、便利な道具。

でも実際のAIは、目に見えないデジタル空間に浮かんでいる存在ではなく、
物理的な「重さ」を持っている。

AIは、巨大なデータセンターの上で動いているが、
そこには、冷却装置、電力網、通信設備があり、
小さな都市に近い規模のエネルギーが常に消費されている。

特に学習(トレーニング)の段階では、
数百〜数千メガワット時という、
個人の生活感覚からは想像しにくい量の電力が使われる。
検索の延長みたいな日常的な利用だって、一回一回は小さく見えて、
回数が積み重なることで、全体としては膨大な推論の洪水となる。

つまりAIは、「賢い道具」というよりも、
電力と資本を食べ続ける、巨大な文明インフラに近い。

そしてその中心には、
中央集権的な「大きな脳」のような演算装置がある。
私たちが触れているのは、そのごく表層にある画面や言葉だけで、
裏側で何が動いているのかを、身体で感じ取ることはほとんどない。

この「重さ」は、普段は見えない。
けれど確かに存在していて、
これまでとは違う形で、文明の判断のあり方を変え始めている。

文明は、ずっと「失敗が前提」で進んできた

AIが登場する以前、人類の文明は、ある前提の上に成り立っていた。
それは、とても単純で、少し残酷な前提でもある。

正解は、実行前には分からない。

だから人は、身体を使って試すしかなかった。
やってみて、うまくいかなければやり直す。
失敗すれば、時間がかかり、痛みがあり、場合によっては命の危険すらあった。

農業も、道具も、医療も、社会の仕組みも、
すべてはこの「身体を張った試行錯誤」の積み重ねだった。

エジソンが電球を完成させるまでに、
1万回失敗したと語った話はよく知られている。
あれは彼の哲学でもあるが、当時の文明においてはごく当たり前の姿でもあった。

失敗は、知性の副産物ではない。
失敗そのものが、知性の一部だった。

重要なのは、失敗が必ず身体に返ってきたことだ。
うまくいかなければ、疲れる。
判断を誤れば、損をする。
無理をすれば、壊れる。

この「身体に返ってくる」という性質が、
判断を自然に慎重なものにしていた。

ほかの誰かが決めたことでも、
その決断の結果は、近くにいる人たちの生活にすぐ現れる。
だからこそ、「責任」という言葉が、
特別に説明されなくても、感覚として理解できた。

文明は、合理的ではなかった。
無駄も多く、遠回りも多かった。
けれどその不器用さは、
判断と身体が近くに保たれているという意味では、
とても合理的だったとも言える。

失敗が痛い世界では、
痛みを感じる場所で、判断が行われる。
それが、人類が長い時間をかけて築いてきた、
文明の基本的な姿だった。

判断は、AIの前からすでに、からだから遠くなっていた

判断が身体から切り離され始めたのは、
AIが登場してからではない。

もっと前から、
判断は少しずつ、しかし確実に、
生活の現場から遠ざかっていった。

法律や制度が整い、
組織が大きくなり、
専門化と分業が進むにつれて、
「決める場所」と「痛みを引き受ける場所」が分かれていった。

判断は、
抽象的な言葉や数字の中で行われるようになり、
その結果を受け取る側は、
具体的な身体として現場に残った。

この時点ですでに、
判断と身体の距離は、
かなり長く伸びていた。

多くの人は、
自分が関わっている決まりごとについて、
「なぜそうなっているのか」を
身体感覚として説明できなくなっていた。

それでも文明は回っていた。
なぜなら、
人間の判断にはまだ限界があり、
失敗は時間と痛みを伴っていたからだ。

間違えれば、
現場が混乱する。
無理をすれば、
どこかで破綻が起きる。
判断が遠くても、
完全には切り離されていなかった。

そこに、AIが芽を出した。

AIは、
この「すでに遠くなっている判断」を、
さらに、さらに、遠くまで運んでしまうことができる存在だ。

試行錯誤は、
人の身体を離れて行われるようになり、
失敗は、
誰かの生活に直接返ってこなくなった。

重要なのは、
AIが新しく何かを破壊するというより、
もともと身体から離れすぎて不安定な構造を、
一気に可視化し、加速させうる
という点だ。

効率性、合理性を目指し、
判断が身体から遠くなりきった状態で、
それらをより高速に最適化できる装置が現れた。
それが、今の状況に近い。

私たちは、
AIによって突然世界が変わったのではない。
すでに遠くなりすぎていた判断の上に、
AIという芽が育ってしまった


判断と身体の距離が、
取り返しのつかないところまで
伸びてしまったことを、
隠せなくするだけなのだ。

昔の判断は、意外と近かった

昔の社会は、今よりずっと単純だった。
だからといって、楽だったわけではない。
むしろ危険も多く、不安定で、
失敗の代償は今よりずっと大きかった。

ただ一つ、決定的に違っていた点がある。
判断と身体の距離が、今よりはるかに近かった

天候の変化や病、飢えや災害は、
「神」や「自然の意志」として理解されていた。
それらは抽象的ではあったが、
生活のすぐ隣にあった。

人々は、
霊媒師や巫女の言葉を通して、
自然の兆しを読み取ろうとした。
その解釈が正しいかどうかは、
すぐに生活の中で確かめられた。

判断を下す族長や長老は、
同じ土地に住み、
同じ空気を吸い、
同じ危険にさらされていた。

判断を誤れば、
自分も巻き込まれる。
逃げ場はない。
だから、判断が軽くなることは決してなかっただろう。

このサイズ感は、
現代の中小企業に近かったのではないだろうか。
社長の決断が、社員の生活に直結し、
会社が傾けば、社長自身も困る。

ここには、
特別な契約や倫理は必要ない。
距離が近いという事実が、
自然に責任を生んでいた。

現代の社会は、
これとはまったく違う。
判断は、
法や制度、組織、数値の層をいくつも越えて行われる。

その一つひとつは完全に合理的かもしれないが、
重なり合った結果、
判断と身体のあいだには、
いくつもの階層が挟まることになった。

その階層は、
誰かの悪意で作られたものではない。
効率や公平性、安定性を求めた結果、
少しずつ積み上がっていった。

けれど、
階層が増えすぎると、
判断が遠くなりすぎる。

身体は、
どこで決まったのか分からないルールを、
ただ引き受ける側になる。
判断の正しさも、
間違いも、
感覚として掴めなくなる。

昔の社会が優れていたのではない。
ただ、距離が身体の許容範囲に収まっていた
それだけの違いだ。

選挙が「儀式」になる理由

「選挙は大切だ」

行くべきもの、参加すべきもの、
それが常識であり、普通だとされている。

けれど、その「大切さ」は、
必ずしも身体の実感として共有されているわけではない。

一票を投じることで、
自分が何の判断に関わり、
その結果が自分の生活の、どこに、どのように返ってくるのか。
それを具体的に思い描ける人が、どれほどいるだろうか。

市民にとって、比較的「身近な」はずの市長の判断ですら、
「どこかで決まった方針」として受け取られることが多いのではないか。

ましてや、国や大企業、グローバル的な意思決定となると、
身体との距離は、さらに何段階も開く。

この距離の中で、
選挙は「判断に直接関わる行為」というより、
関わっていることを示す行為になっていく。

一票を投じる。
その行為によって、
「自分もこの仕組みに参加している」
という位置づけを得る。

それは、嘘ではない。
けれど、その実感は、
身体の深いところまで届くとは限らない。

判断との距離が遠くなりすぎた社会では、
人々が完全に切り離されてしまわないように、
象徴的な接点が必要になる。

選挙は、その役割を担っている。

だから選挙は、
結果を左右する実感のある行為というより、
参加感を無理やり維持するための儀式」のようになっている

ここで生まれる
無力感や白けた感覚は、
無関心や無責任の表れではない。

判断が、身体の感覚を超える距離まで
離れてしまったことへの、
ごく自然な反応
だ。

人は、
自分の身体で引き受けられる範囲の判断には、
説明されなくても関心を持つ。

逆に、その範囲を大きく超えた判断については、
どれほど「大切だ」と言われても、
感覚として掴むことができない。

選挙が「大切だとされている」という事実と、
それを身体で感じられるかどうかは、
別の問題なのだ。

AIを「神経系」として捉え直す

判断が、身体から遠くなりすぎたこと。
そして、判断と身体の距離は、長いあいだ、
はっきりと意識されないまま積み重なってきた。

AIは、その状況の中で芽を出した。

巨大な電力と資本を使い、
人間の身体を離れた場所で、
膨大な試行錯誤を引き受ける装置として。

だからAIは、
新しい支配者というよりも、
これまで見えなくなっていた距離を、
隠せなくしてしまう存在
だと考えたほうが近い。

ここで、AIを
思考や判断を代行する頭脳としてではなく、
人体における「神経系」のようなものとして捉えてみる。

人体の神経は、
何かを決めるために存在しているわけではない。
ただ、末端の変化や痛みを、
中枢まで確実に届ける。

指先にトゲが刺さったとき。
それは全体から見れば、
わずかな損傷にすぎないかもしれない。

それでも、その痛みは、
確かなものとして、
ほとんど時間差なく脳へ届く。

もちろん脳は、それを無視することもできる。
けれど、無視し続ければ、
刺さったトゲは抜けないまま、
身体は確実に壊れていく。

AIが担いうる役割も、
それに近い。

現場の負荷、
人が生きるかぎり消えることのない、
社会の基礎代謝としての、きつい仕事

それらは価値が低いからではなく、
あまりにも不可欠で「当たり前」だからこそ、
長いあいだ背景に追いやられてきた。

AIは、見ないままでいられたこの「きつさ」を、
数字やモデル、シミュレーションとして、
中枢に届けるだろう。

AIは、
「こうすべきだ」と命令しない。
ただ、
どこに、どれだけの痛みが生じているかを、
見える形にしてしまう

その信号をどう扱うかは、
依然として人間の側に委ねられている。

無視することもできる。
これまで通り、
効率や利益を優先することも可能だ。

ただしそれは、
人体における自傷行為に近い。

痛みが届いているのに、
聞かなかったことにする。
その選択が、
長く続くとは思えない。

「からだに帰る」という言葉は、
文明を捨て去ることでも、
昔に戻ることでもない。

判断を、
身体が引き受けられる距離に戻すこと。

AIは、そのための答えを出してくれる存在ではない。
ただ、距離をごまかせなくする神経系として、
すでに文明の中に組み込まれ始めている。

この神経をどう使うのか。
あるいは、使わずにい続けるのか。

それは、
どんな社会が正しいか、という問いではなく、
どこまでの距離なら、
人間の身体が壊れずに生きられるか

という問いなのかもしれない。

おわりに

判断と身体の距離が遠くなりすぎてしまった今、
それを一気に解消する魔法のような方法はない。

けれど、その距離を少しずつ縮めていく設計を選択できる可能性は、
すでに現実の中に芽を出している。

たとえば、市民の意見を聞く方法ひとつ取っても、
これまでとは違うやり方が考えられる。

選挙のように、数年に一度だけまとめて意思表示をするのではなく、
もっと小さく、もっと頻繁に、
判断の機会を分散させることはできる。

実際、台湾では
vTaiwan や Join といった仕組みを通じて、
市民の意見を継続的に集め、
政策形成に反映させる試みが行われているらしい。

もしそれを、さらに一歩進めるとしたら、
市民一人ひとりのスマートフォンに、
政策に関する問いが直接届く、という形も考えられる。

最初は、とてもシンプルなものでいい。
「この街に新しく作るとしたら、美術館と水族館、どちらがよいでしょう?」
そんな二択から始まるかもしれない。

重要なのは、その判断を支える仕組みだ。

AIは、
その政策がどんな背景で出てきたのか、
それぞれどのくらいの予算が必要で、
将来にわたってどんな影響があるのか、
その二択以外にどんな政策が選べるのか、
何時間でも、一人ひとりに合わせて対話的に説明できる。

市民が質問すれば、
納得できるところまで付き合う。

そしてその対話のログは、
どこで理解が止まり、
どこに違和感が生まれたのかを示す、
貴重な情報になる。

こうしたやりとりが積み重なっていけば、
やがて市民は
「この政策は自分で判断する」
「これはAIに任せる」
という選択もできるようになるかもしれない。

それは、判断を放棄することではない。
自分の考え方や判断の傾向の積み重ねを、
AIに写し取らせたうえで、
軽微な判断は委ねる
という選択だ。

一方で、
本当に重要な政策については、
AIがこう教えてくれる。

「この政策が進められています。
あなたへの影響度は〇〇%です。
主な論点はここです。
意見を出すかどうか、一度立ち止まって考えませんか。」

いまのように、
膨大で専門的な情報を一方的に公開して、
「パブリック・コメントは終了しました」
「反対意見を出さなかった市民の責任です」
みたいなやり方よりも、
こちらのほうが、ずっと身体に近いのではないだろうか。

個人のAIが、
市の政策をすべて読んでくれる。
自分の思考の傾向や立場も理解したうえで、
必要なところを手渡してくれる。

それは、
判断を奪われることではなく、
複雑になりすぎている判断を手の届く範囲に取り戻すことに近い。

それは、AIがなにもかもすべてを決める社会でもないし、
人間がすべてを背負う社会でもない。

判断とからだのあいだに、
もう一度、
ちゃんと神経が通う社会。

「あいへ向かう」とは、
そういう設計を、
一つずつ試していくことなのかもしれない。

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