春は、どうにも輪郭がゆるむ。
「春眠暁を覚えず」と言うけれど、たしかにこの時期は、頭の芯に薄い霞がかかったようで、世界のピントが少しだけ合いにくい。花粉のせいで目も鼻もむずむずして、身体そのものが「今日はあまりしゃんとできません」とでも言いたげだ。そういうぼんやりした不快感のなかにいると、人生そのものもまた、くっきりした地図を持たないまま進んでいるのだということを思う。
人生には、最初から完全な地図なんて配られていない。
どこへ向かえばよかったのか、何を選べば正解だったのかは、その只中にいるときには分からない。後になってから、ああすればよかった、こうすれば違ったかもしれないと振り返るしかない。春の空気がどこか頼りなく、足元と遠くの景色が同時にぼやけるように、人生もまた、見通しの悪さを含んだまま進んでいく。
けれど、人が後悔する理由は、単純な資源不足だけではないのだろう。
むしろ大きいのは、他人が決めたルールや、社会が勝手に用意した物差しで、自分の人生を測り続けてしまうことなのかもしれない。お金、成功、評価、効率。そうした尺度は、花粉のように目に見えないまま入り込み、気づかないうちに思考や感覚をむずがゆくさせる。本当は自分の呼吸で、自分の身体で、自分の時間を測りたいはずなのに、いつの間にか別の基準に反応してしまう。
とはいえ、可能性を開いたままで生きることもまた苦しい。
あれもあり得た、これもあり得たと考え続ければ、意識は空中に浮いてしまう。抽象へ意識を向けすぎれば、タレスのように足元を失う。だから結局、人は納得しきれないままでも、どこかであえて焦点を絞り、ひとつのことに没頭する瞬間を引き受けるしかないのだと思う。ぼんやりした春の空気のなかでも、ときどきふっと輪郭が戻る瞬間があるように、人生にもまた、完全な納得ではなくても「ここに少し留まってみよう」と思える時間がある。
可能性を見続けることと、今ここに身を置くこと。
そのどちらかだけではなく、そのあいだの揺れごと抱えながら生きること。春の眠気や花粉のむずがゆさに少し苛立ちながら、それでも今日を進めていくこと。たぶん人生は、その曖昧さごと引き受けながら、焦点とぼやけのあいだでバランスを問い続けるゲームなのだろう。

コメント