最近、「スピリチュアル再流行」の動画を観た。
AIの登場によって論理が価値を失い、人類は魂や物語の領域へと逃げ込んでいる――そんな勢いのある主張だった。
正直、ちょっと引き込まれた。
とくに「AIは現代の魔術だ」という例えは、うまいと思った。
画面に向かって呪文のようなプロンプトを打ち込むと、ブラックボックスの奥から画像や文章が滑り出てくる。この「呼び出す」感覚。
中世の魔術師が煙の向こうから何かを召喚する姿と、ディスプレイの光に照らされながらキーボードを叩く自分の姿は、どこかで重なって見える。
ただ、一晩寝てから考えると、少し引っかかる。
動画では「人類が初めて自分より賢い存在に出会った」と言っていた。
でも、本当にそうだろうか。
「天才」と呼ばれる人たちは「頭がいい」のが当たり前だし、エクセルはとっくに人類の暗算能力を追い越している。車は人間より速く、クレーンは人間より力持ちだ。
ある意味でパソコンだって十分「人間を超えた存在」だ。
今回起きているのは、「知能の暴落」というよりも、「知的労働の席替え」なのではないか。
これまで一部の天才が担ってきた領域や、私たちが仕事として何とかこなしてきた作業の一部が、自動化され始めただけ。
そう考えると、ずいぶん冷静に見える。
スピリチュアルの再流行についても同じだ。
卑弥呼の時代から、陰陽師、ノストラダムス、オーラの泉まで、人間はずっと理屈では説明しきれない「物語」を求めてきた。
不安になれば、意味を探す。それはAI以前から、人間の性根に染みついている。
だから、「AIが来たからスピが流行る」というのは、少し単純すぎる気もする。
それに、どれだけAIが高度になろうと、私の体験世界の帯域は変わらない。
AIが0.1秒間に何万枚の画像を生成できようが、私が目でみて、意味を理解できる画像の数は一定なのだ。
この世のすべてを表現した文章を出してきても、私が読んで「面白い」と感じることができなければ、それはただの文字列だ。
それに、人間はすぐに慣れる。
インターネットも、スマートフォンも、最初は革命のように騒がれたが、今では空気のような存在だ。
古くは、本だって、テレビだって、同じような扱いだった。
AIも、そのうち同じ位置に落ち着くのだろう。
もしAIが、論理的に完璧で、汚れのない美をいくらでも吐き出す存在になったら。
そのとき私は、誰かの手書きの文字や、言い淀みや、ぎこちない沈黙の方に魅力を感じるのではないかと思う。
AIで遊ぶ時間もあっていい。
でも、人間と泥臭く関わる時間もやはり捨てがたい。
結論は出ない。
AIは魔術かもしれない。
けれど、その魔術さえもやがて飽きてしまい、日常へと回収してしまう「飽きる力」のようなものが人類にはあるようにも思う。
観光客のように、一つの場所に留まらない軽やかさ。
ただ、自分が「いいな」と感じるものを選び取り、意味を見つける作業だけは、これからも変わらない。
結局、私は私のFPSで、
私の物語を作っていくしかないのだ。

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