「正しさ」を怖がる人の、謎の正義感

Xで、りょうさんという人のポストが流れてきた。

炎上に群がる人たちを、謎の正義感とか、評論家気取りとか、次の瞬間には忘れてしまう凶人だとか……。 言いたいことは、まあ分かる。タイムラインを見ていれば、いかにも「あるある」な光景だ。

でも、なんだろう。読んでいて、どうにも鼻につく。 たぶんその理由はずっとシンプルで、その言葉自体が、誰にも撃たれない一番「安全な場所」から放たれているように見えるからだ。群衆を批評するという行為は、基本的にノーダメージだ。

そもそも、みんなが叩く「群衆」って一体誰のことなんだろう。 「群衆心理」なんて便利な言葉を使っているけれど、その群衆には名前も、戸籍も、固有の人格もない。あれは誰かの意思というより、構造が生み出している単なる現象じゃないか。 たとえば、花火大会で将棋倒しが起きたとき、倒れ込んだ人たちを見て「群衆って狂ってるよね」なんて言うのは、あまりに雑すぎる。あれは「群衆」という仮想人格が狂っていたとかじゃなくて、単に、インフラ構造と動線と運用の問題だった。

SNSだってそれと同じだ。アルゴリズムが感情を煽り、可視化の偏りが火種を大きくし、低コストで誰でも参加できる仕組みがある。そもそもXは怒りを餌に肥える設計だ。その結果として人が集まる現象を、「謎の正義感」とか「凶人」なんてレッテル一枚で片付けるのは、あまりに思考が雑すぎないだろうか。

人間は、その日その時の脳みその出来で動く、だいぶ雑な生き物だ。 昼間に理不尽なクレームを浴びて心身ともにヘトヘトになった人が、帰宅途中の電車でスマホを開き、自分のトラウマを突くような刺激に反応して、つい匿名の安全圏から一言吐き出してしまう。

その瞬間だけを切り取って「正しさを振りかざす凶人」と断じるのは、あまりに人間を平面に見すぎている。 人は失敗もするし、魔が差すことだってある。その日のコンディションでIQもEQもガタガタに揺れる。ずっと「凶人」であり続ける人なんて、そうそういない。

それに、一番気になるのは「正義は怖い」と語るその視線だ。 「自分はあんな群衆とは違う、冷静に見抜いている側にいる」というポジション。でも、その「上から眺める視点」だって、結局は自分に安心をくれる「小さな正義」じゃないのか。群衆を怖がることで、自分はあの中にいないのだと再確認する。その構造は、叩いている「群衆」側と何が違うんだろう。

結局、これは「凶人が怖い」なんて話じゃなくて、人間という生き物がなぜ噂話に耽り、なぜ正義に快感を覚え、なぜバズに引き寄せられるのかっていう、もっと根源的な話なんだと思う。

かつてダンバー数(150人)サイズで設計された脳みそを、数万人規模のアルゴリズムに放り込んでいるだけの話だ。それは愚かさや歪みというより、その規模の構造が生み出す固有の力学なのだと思う。

炎上に加担する人を「怖い」と笑うのは簡単だ。 でも、なぜその人がその瞬間にその言葉を投げたのか。その一言が、その人の何を守り、何から救おうとしていたのか。そこまで想像を伸ばせたら、世界の見え方はもう少しだけ、優しく開かれたものになったかもしれない。

正義を振りかざす群衆も、それを冷笑する誰かも、そしてそんな光景を肴に思考を巡らせている自分さえも、結局は同じ力学の中で、もがきながら自分の輪郭を保とうとしているだけなんだ。そう気づいたとき、ふっと肩の力が抜けて、すべてがどうしようもなく滑稽で、愛おしい「赦し」のようなものに包まれる気がする。

結局、どっちも人間なんだよ。 状況次第で、明日はどっちの立場に入れ替わっているか分からない。 ……なんてことを考えながら、僕もまたスマホを指でスクロールしている。 ほらね。安全圏なんて、本当はどこにもないんだ。

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