ふと思った。
3か月前の自分の文章ですら、
30年前の黒歴史ノートを開いたときと、
あまり変わらないくらいにはこっぱずかしく、
もうまともに直視できない。
「何をそんなに肩肘張って、したり顔で語ってるんだ」とか、「よくもまあ、こんな恥ずかしい断定ができたな」とか。 実際に読み返すまでもなく、想像するだけで耳の後ろが引っ張られる感じがする。この、逃げ出したくなるようなこっぱずかしさは、大学生の頃に書いていたあの「痛い」日記を読み返した時の絶望感と、本質的には何も変わっていない。
恋愛のポエムめいた記述や、いっちょ前の社会批判。 当時の自分は、あれで死ぬほど必死だったのだ。それが今や、布団に潜り込んで叫びたくなるような黒歴史になっている。
でも、最近思うのだ。この「黒歴史を量産する」という性質は、実は文明全体にも当てはまるんじゃないか、と。
個人が、若気の至りで勘違いして、狭い視野で空回りして、後から「うわ……」と頭を抱える。 社会も、文明も、ただそのスケールを大きくして同じことを繰り返しているだけなんじゃないだろうか。
もし文明に人格があるとしたら、今の私たちを振り返って、深いため息をつきながらこう赤面するのかもしれない。
「うわ……なんでヒロシマやナガサキを、
「必要だった」なんて言葉で正当化しちゃったんだろ……」
「人を好きになる形なんて最初から千差万別だったはずなのにさ、どうして異性愛だけを「まとも」とか言ってそれ以外を黙らせるみたいなこと、平気でやってたんだろ。……いや、恥ずかしすぎるでしょ」
それは冷たい断罪ではなく、もっと個人的で、情けない自意識としての「恥」に近い感覚。
そう考えると、黒歴史というのは、単なる失敗の記録ではない気がしてくる。 それは「更新」が起きたという、何よりの証拠なのだ。 恥ずかしい、と思えるのは、もう自分がその場所にいないことの証明だから。
今、こうして画面に向かって必死に綴っている思考も、数年後には「何をそんなに真剣に……」「当たり前のことしか言ってないよね……」などと苦笑いの対象になるだろう。
特に今はAIなんていう便利な鏡がある。考えたそばから言葉は構造化され、過去の賢人たちの思想と紐づけられて、一瞬で「正解」っぽくパッケージされてしまう。 思考がその場で成熟を強制されるから、恥の到来がやたらと早い。
その結果、たいして分かってもいないのに、
AIに整えられた「ちょっと賢そうな自分」が画面に現れてしまい、
それを後から見る自分が、いちばん照れる。
それでも、その瞬間に確かに喉に引っかかっていた違和感や、不格好に言葉を探していたあの時間は、決して無駄なんかじゃない。
個人も、社会も、文明も。 きれいに右肩上がりで成長するわけじゃない。 似たような失敗を、少しずつ形を変えながら、フラクタルに、螺旋的に、繰り返し、上昇していくと信じている。
30年後。
今の時代を振り返って、「なんてバカなことを真顔でやってたんだろう」と、人類が本気で照れる日が来るとしたら。 それはきっと、今より少しだけマシな場所へ辿り着いた、悪くない未来なのだと思う。
今日のこの、なんとも言えないこっぱずかしさも。 ちゃんと生きて、ちゃんと変わっていこうとしている証拠として、とりあえず抱きしめておくことにする。

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