生まれてきてよかったと思えない感覚

――方向を失ったまま、進めないということ

正直に言うと、
「生まれてきてよかった」と、
あまり思ったことがない。

不幸だった、というほどでもない。
特別に恵まれていなかった、というわけでもない。

条件だけを並べれば、
むしろ平均よりは楽な場所にいるのかもしれない。

それでも、
この世界に「呼ばれた」という感覚が、
どうしても持てない。


子どもが欲しい、と思ったことも、ほとんどない。

45歳になって、
同世代の人たちには
中高生や、もう成人した子どもがいる。

そういう話を聞いても、
羨ましさや焦りより先に、

「責任が重そうだな」
「大変そうだな」

という感覚が立ち上がる。

もし自分に子どもがいたら、
今よりずっと消耗していただろう、
という想像は、かなり具体的にできてしまう。


最近は、
「なぜ子どもがいないの?」
「結婚は?」

と、直接聞かれることはほとんどなくなった。

その点では、
時代は確実に変わったと思う。

ただ、
意図的にその話題を避けている空気は、
確かに存在している。

誰も何も言わない。
でも、何も言わないこと自体が、
わずかに居心地の悪さを残す。

とはいえ、
その場の違和感よりも、

「もし子どもがいたら、
この何倍もしんどかっただろうな」

という感覚のほうが、
ずっと強い。


自分が立ち止まっている理由は、
世界が複雑だから、ではない。

便利さと引き換えに、
世界がどんどん複雑になったことは事実だ。

けれど、
問題はその複雑さそのものではない。

次にどこへ進めばいいのかが、見えない。

それが、いちばん大きい。


結婚や、子を持つことは、
人生の中でも、かなり大きな選択だ。

一度踏み出せば、
簡単には引き返せない。

本来なら、
「こちらへ進みたい」という方向感覚があって、
その延長線上に、
そうした選択が置かれるのだと思う。

でも、自分には、
その羅針盤がない。

進むべき方向が見えないまま、
大きな責任だけを引き受けることに、
どうしても踏み切れない。


不思議なことに、
飛び込めない理由だけは、
いくらでも見えてしまう。

失うもの。
背負うもの。
戻れなくなる感じ。

それらは、
理屈でも、感覚でも、
はっきりと想像できる。

けれど、
「それでも進みたい」と思わせる動機だけが、
どうしても立ち上がらない。

だからこれは、
慎重さの問題ではない。

臆病さでも、
責任感の欠如でもない。

方向が分からないままでは、
不可逆な選択ができない。

ただ、それだけのことだ。


「生まれてきてよかった」

この言葉が、
疑問形にすらならない人がいる。

それが間違っているとは思わない。
ただ、その感覚は、
自分の中にはない。

むしろ、

「生まれてきたことは、
そんなに無条件に肯定されるものなのだろうか?」

という問いのほうが、
ずっと自然に浮かぶ。


社会や文明そのものが、
多くの人にとっては、
目的であり、ビジョンであり、
ミッションなのだと思う。

でも、自分には、
社会や文明は、
何かもっと大きなものの手段に見えてしまう。

もし、
文明の進む方向や、
この世界の意味が、
ほんの少しでも見えるなら、

目の前の一歩を踏み出すことも、
子を持つことも、
別の意味を持つのかもしれない。


だから、ときどき、
自分の感じているこの違和感について、
別の見方も浮かぶ。

もしかしたら、
社会や文明を疑いなく受け入れている周囲の人たちが
「盲目」なのではなく、
むしろ自分のほうが、
見えすぎているだけなのかもしれない、と思うことがある。

多くの人は、
目の前の生活や役割、
次にやるべきことに意味を見出しながら生きている。

仕事をする。
家庭を持つ。
子どもを育てる。
社会を回す。

それらは、
深く問い直さなくても、
十分に成立する生き方だ。

点字ブロックに沿って歩くように、
遠くまで見通せなくても、
足元の一歩が確かであれば、
人は前に進める。

それを、
自分はできていない。

なぜなら、
一歩先だけでなく、
その先に「どこへ向かっているのか」を
どうしても考えてしまうからだ。


社会や文明が、
どこへ向かっているのか。
なぜ続けられているのか。
何のために拡張されてきたのか。

そうした問いに、
はっきりした答えが見えないままでは、
自分は足を運べない。

多くの人が歩いている道に、
危険があると確信しているわけではない。

ただ、
その道が「どこへ続いているのか分からない」
ということが、
どうしても気になってしまう。


だから思う。

盲目なのは、
周囲のみんなではなく、
自分なのかもしれない。

暗闇であることを、
必要以上に直視してしまっているだけなのかもしれない。

もし、
意味が見えなくても進める人が「健全」なのだとしたら、
自分はその感覚を、
どこかで失ってしまったのだと思う。


それでも、
見えないふりをして進むことは、
自分にはできない。

分からないまま進むより、
分からないことを分かったまま、
立ち止まってしまう。

それは、
正しい選択でも、
立派な態度でもないかもしれない。

ただ、
いまの自分にできる、
唯一の誠実さだと思っている。

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