言いたいことは分かる。
たしかに、人の反応ばかりを気にして、自分が何を感じているのか分からなくなる、という状態はある。
でも、ここで立ち止まりたくなる。
そもそも、
褒められたこと
喜ばれたこと
感謝されたこと
を嬉しいと感じるのは、そんなに歪んだことだろうか。
それって本当に「他人軸」なのだろうか。
「他人軸」は、外から入ってくるものではない
よく考えてみると、
人に褒められて嬉しい、感謝されて嬉しい、という感覚も、
・その言葉をどう受け取るか
・それを価値あるものだと感じるか
・またやりたいと思うか
これらすべては、自分の中で起きている反応だ。
他人が勝手に軸を差し込んでくるわけじゃない。
「他人の期待」も、「他人の評価」も、
それを重要だと感じているのは自分自身だ。
つまり、
他人軸に寄っているように見える行動も、
実際には「自分の中にある、他人という概念」を参照しているだけ
軸そのものは、最初から最後まで自分の中にしかない。
「感謝されたい」は、本当に浅い欲望なのか
このポストでは、
「人から感謝されたい」という欲望は、
本当にやりたいことなのか?
と問いかけている。
でも、ここにも違和感がある。
人は社会的な動物で、
誰かと関わり、役に立ち、認められることで安心する。
それは、
・承認欲求
・所属欲求
・関係性の欲求
と呼ばれてきた、ごく基本的な欲求だ。
それを
「それは本当のやりたいことじゃないかもしれない」
と切り捨ててしまうのは、
あまりにも乱暴じゃないだろうか。
むしろ多くの場合、
「感謝されたい」
「誰かの役に立ちたい」
という欲望は、
その人が社会の中で生き延びてきた証拠でもある。
問題は「軸」ではなく「余裕」なのでは
もし、ある人が、
・生活が不安定
・立場が弱い
・拒否できない
・代替の居場所がない
こういう状況にあるなら、
その人が、他人の評価に過剰に敏感になるのは自然だ。
それを
「他人軸だから苦しいんだ」
「自分軸に戻ろう」
と説明してしまうのは、
原因と結果を逆にしている気がする。
苦しいから、評価に縋る。
軸の問題というより、余裕の問題だ。
「評価関数を変えれば幸せになれる」という危うさ
この手の話は、だいたい最後にこう続く。
・自分軸で生きよう
・思考を変えよう
・周波数を上げよう
でも、それって結局、
現実が変わらないなら、
感じ方を変えればいい
という話になっていないだろうか。
痛みがあるときに、
原因を取り除くのではなく、
感覚を麻痺させるような感じがする。
それは対症療法であって、
解決とは少し違う。
「本当にやりたいこと」は、そんなに純粋じゃない
たぶん、
「本当にやりたいこと」
なんてものは、
最初から澄んだ形では存在しない。
・誰かに喜ばれた経験
・失敗して恥をかいた記憶
・報われた感覚
・報われなかった悔しさ
そういうものが混ざり合いながら、
少しずつ輪郭ができていく。
だから、
「それは他人軸だからダメ」
「それは本当の欲望じゃない」
と切り捨てるより、
「なぜそれを嬉しいと感じたのか」
「それが自分に何を残したのか」
を、もう少し丁寧に見るほうが誠実だと思う。
まとめると
このポストは、
一見すると深いことを言っているようで、
実は、
・社会的な欲望を軽視し
・構造的な不利を見ないまま
・責任を個人の内面に押し戻している
そんな危うさを感じる。
「他人軸」という言葉で片づけるには、
人が人として生きてきた履歴は、
もう少し重い。
感謝されたいと思う気持ちも、
誰かに喜ばれた記憶も、
全部ひっくるめて、その人の人生だと思う。
それを否定しなくてもいい。

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