このボタンを押すと、なりたい自分に100%なれます

こんな思考実験を見かけた。

最初は、ちょっと面白そうだと思った。

一見すると、自己同一性や、選択の自由を問う、哲学的な問いに見える。
だが、少し考えると、すぐに興味が失せた。

だってこのボタン、
すでに社会で不利な状況に陥っている人には
「押すに決まってるじゃん」というボタン
でしかない。

現状がすでに「罰」である以上、嫌な記憶をも消せた上に、
なりたい自分になれるなら、選択肢は一つしかない。

一方で、スポーツで成功していたり、
金や資本、評価や自由を十分に持っている側には
「押すわけないじゃん」というボタン
だからだ。

記憶とは、努力と運と偶然が積み重なった資産そのものだからだ。

押すかどうかは、性格の問題でも、勇気の問題でもない。

「何回目まで押しますか?」という問いを装いながら、実際には現在の社会的ポジションを測っているだけだ。

つまり、このボタンの問いは、平等な問いではない

それを「人生の選択」みたいな顔で出されても、
なんだかズルいな、と思った。


今朝は、悪夢で目覚めた。

内容はほとんど覚えていない。
ただ一つ、強烈な場面だけが残っている。

ある女の人が、周りに取り押さえられ、銃で撃ち殺される。

それを見ながら、
「あんなことをしたのだから、撃ち殺されても仕方がない」
という感情と、

「そこまで追い込まれたのは、
本当にこの人の責任だったのか?」
という感情が、同時に湧き上がるような夢だった。

どちらも否定できなかった。

その曖昧さが、夢から覚めたあとも、胃の中に沈殿していた。


社会は、行為と結果を単純な因果で結びたがる。

良い行いは報われ、
悪い行いは罰せられる。

だが現実には、
行為の前にすでに、選ぶことすら許されなかった条件が強制的に与えられ、
そのうえで選択だけが個人の責任として問われる。

生まれた場所。
持っている身体や認知能力。
理解できるルールと、理解できないルール。
失敗しても回復できる人間関係と、できない人間関係。

それらの差は、
努力や選択よりもはるかに大きく作用する。

それでも社会は、
結果だけを切り出し、
「本人の責任」という物語で処理する。

夢の中で撃たれた女の人は、
裁かれたというより、

この社会が自分の歪みを直視せずに済むように、
問題を個人の責任に回収し、
それ以上の思考を停止するために、
無感情に処理された存在のように見えた。


「押したら理想の自分になるボタン」が空虚に感じられたのは、
それが自由意志の問いではなく、

誰がこの社会の歪みを押し付けられ、逃げ道を必要とさせられているかを、
静かに可視化する装置
にすぎなかったからだ。

押す自由があるように見えて、
押さざるを得ない人と、
押す理由すらない人が、最初から分かれている。

それを「選択」の問題にすり替えること自体が、
すでに暴力的だ。

本当に問われるべきなのは、人生をリセットするボタンがあるとして、なぜ、同じ社会にいながら、そのボタンを救いだと感じる人と、押す必要を微塵も感じない人が生まれてしまうのか。そして、その差を、どこまで「自己責任」と呼び続けていいのか、ということだろう。

あの後味の悪さは、
その問いが、まだ宙に浮いたままであることを示している。

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