努力しろ、が苦しくなった理由

最近、「努力しろ」「頑張れ」という言葉が、
もう素直に励ましとして受け取れなくなってきた。

別に、努力が嫌いになったわけじゃない。
何かに向かって手を伸ばしたい気持ちも、成長したい気持ちも、ちゃんと自分の中にある。

ただ、その言葉の裏に、
「理解できない世界を、全部お前の責任で引き受けろ」
という圧が貼り付いている感じがして、身体が先にブレーキを踏む。

スーパーでプリンを買うとき、裏面の成分表なんて正直わからない。
就活だって、入る前に職場の本当の空気は見えない。
政治なんて、論点が多すぎて一票に圧縮できるわけがない。

それでも社会は、「自分で選んだんでしょ」「自己責任でしょ」と言う。

理解できないのに、責任だけは発生する。
逃げられないのに、自由意志だったことにされる。

この構造の上で「努力しろ」と言われると、
それはもう応援じゃなくて、静かな圧になる。

しかも厄介なのは、この自己責任の物語を、
支配する側だけじゃなく、僕たち自身が互いに強化し合っていることだ。

「努力が足りない」
「甘えるな」
「自己責任だろ」

気づけば、闘う相手は社会じゃなくて、自分自身になっている。

本当は、努力って、
どんなリスクを引き受けるのか、
どんな構造に乗るのか、
身体がちゃんと回復できるのか、
そういう前提込みで選ぶ行為のはずなのに。

「努力しろ」という言葉は、そこを全部省略してしまう。

だから暴力になる。

それでも、努力そのものを手放したいわけじゃない。
ただ、誰かに押し付けられた努力じゃなくて、
自分の身体と相談しながら、引き受ける覚悟を選び直した努力でありたい。

速さより、手触り。
正しさより、納得。
勝ち負けより、ちゃんと生きている感じ。

そのくらいの温度でいい。

たぶん僕は、「頑張れ」と言われたいんじゃなくて、
「無理しなくていい」「ちゃんと感じていい」と言われたいだけなんだと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました