昨日書いた違和感を、もう少し構造のほうまで掘ってみる。
たぶん、いちばん根っこにあるのは、
「不可視化」と「不可避化」が、やさしい言葉の皮をかぶって入り込んでくる感じへの警戒なんだと思う。
現代の大企業経済って、
・不可視化:仕組みが見えない(アルゴリズム、契約、最適化)
・不可避化:そこから降りられない(インフラ依存、ロックイン)
という二重構造でできている。
Amazonも、Microsoftも、石油メジャーも、
気づいたら生活から切り離せなくなっている。
誰がどう儲けているのか、どこに負荷が溜まっているのかは見えにくいのに、
使うことだけは「ほぼ強制」になっている。
あの相談会の文章を読んだときに感じた、うっすらした気持ち悪さも、
実はこの匂いにすごく近い。
表向きは、
「無理しない」
「競争しない」
「好きなことで循環」
「やさしい世界」
という、ふんわりした言葉で包まれている。
でも中身をよく見ると、
価格設定、希少性演出、実績アピール、囲い込み、スピリチュアルの抱き合わせ。
やっている構造は、普通にビジネスそのものだ。
にもかかわらず、
「私たちは資本主義とは違う場所にいます」
という物語だけを全面にだして、ビジネス性を隠す。
つまり、ここで起きているのは、
ビジネス性そのものの不可視化だと思う。
お金がどう流れているのか。
誰がリスクを取っているのか。
誰が外部コストを引き受けているのか。
そこが見えないまま、「循環」という言葉だけが独り歩きする。
しかも「価値観の合う人だけ」「ガツガツ稼ぐ人はNG」と線を引くことで、
循環はどんどん小さな内輪に閉じていく。
外側のインフラや資本に依存しながら、
内側では「やさしい世界ができている」という自己完結した物語が成立する。
これは、不可視化された小さな檻みたいな構造だと思う。
さらに厄介なのは、「不可避化」だ。
「思考が現実化する」
「波動が現実をつくる」
「在り方がすべて」
という言葉が入ってくると、
構造の問題が、個人の内面の問題へとすり替えられる。
うまくいかないのは、あなたの意識が足りないから。
現実が苦しいのは、あなたの在り方がズレているから。
世界が変わらないのは、あなたが変わらないから。
そう言われると、
仕組みそのものを疑う視点が、ほぼ封じられる。
参加するか、信じるか、離れるか。
その三択しか残らない。
これもまた、静かな不可避化だと思う。
本当に「開かれた循環」をつくりたいなら、
本来は、お金の流れをもっと可視化しなきゃいけない。
誰がどれだけ稼ぎ、
誰がどれだけ負荷を背負い、
どこに外部コストが流れているのか。
そして、本当に社会を「まるく」変えたいのであれば、それなりの資金の流れを呼び水として生み出さないといけない。
循環は、気分や善意だけでは起きない。
なのに、「ガツガツ稼ぐ人はNG」と最初から遮断してしまうと、
循環は文化祭やサロンのサイズから出られなくなる。
外から資本を吸いながら、内側だけで「きれいな循環ごっこ」をする構造になる。
それは、やさしさの顔をした、閉じた経済圏だ。
しかも、不可視化されたままなら、
そこに歪みや搾取が入り込んでも、外からは見えない。
小さな教祖、小さな権威、小さな依存関係が、
善意の皮をかぶって育っていく余地が生まれる。
規模が小さいだけで、
匂いは、大企業経済とそんなに変わらない。
たぶん、自分がここまで引っかかってしまうのは、
「やさしさ」が構造になる瞬間を、もう何度も見てしまったからなんだと思う。
やさしさが制度になり、
理念がテンプレになり、
循環が免罪符になるとき、
そこには必ず、見えなくなるものと、逃げられなくなるものが生まれる。
その気配に、身体のほうが先に反応している。
構造が見えてしまうと、
世の中の「やさしいビジネス」「スピリチュアル」「コミュニティ」は、
だいたいどこかが引っかかるようになる。
たぶん、もう戻れない。
でも、
戻れなくなった場所からしか見えない景色も、きっとある。
寒さはまだ続くけど、
この冷えた感覚は、わりと嫌いじゃない。

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