居場所がある人たちの外側で。


二本の記事を書き終えて、画面をぼんやり眺めている。
『ウィキッド ふたりの魔女』①――重力があるから、飛べる
『ウィキッド ふたりの魔女』②――人は、支配されたいのではなく、委ねたい

書き切ったというより、ひとつの思考の流れが、いったん着地した、という感じが近い。

『ウィキッド』の感想を書いていたはずなのに、いつの間にか、映画そのものよりも、「社会の呼吸」のようなものを触っていた気がする。

重力と自由。
委ねる構造。
そして、被害者でいる安全圏。

被害者でいる安全圏とは、「正しさ」を盾に、攻撃の免責を得る場所だと思う。
そこでは誰も自分を加害者だとは感じない。
むしろ、「守られている側」「傷ついた側」というポジションに座ることで、安心して他人を裁くことができる。

SNSの炎上も、よく似た構図を持っている。
一人の軽率な行動が、いつの間にか「我々が迷惑した」という集団の物語に変換される。
本来なら、当事者間の問題で終わるはずの出来事が、「社会全体の正義」の名のもとに、過剰な制裁へと膨らんでいく。

冷静に見れば、法的に裁かれるべき範囲は限られているはずなのに、
現実には、人格や生活や居場所までが破壊される。
それでも社会は、自分たちを加害者とは呼ばない。
「常識を守っただけ」「みんなのため」――善人の顔をした言葉が、暴力の輪郭を消してしまうからだ。

善人の顔をした圧力は、声を荒げない。
命令もしない。
ただ「空気」や「正しさ」や「普通」という言葉で、逃げ場を静かに塞いでいく。
誰も悪意を自覚していないからこそ、誰も止めないまま、誰かが削られていく。

この構造の底には、委ねたい欲望が横たわっている。
自分で考えたくない。
判断の責任を引き受けたくない。
でも、正義の側には立っていたい。
安心できる物語に乗りたい。

だから人は、判断を集団に預け、思考を構造に委託し、
自分の手を汚さないまま、誰かを排除する。
被害者でいる安全圏は、そのすべてを叶えてくれる、居心地のいい席なのだ。

『ウィキッド』の登場人物たちは、立場や役割は違っても、どこか皆、「自然に息ができる居場所」を持っていない。
オズ大王は、見えすぎてしまうがゆえに、本音で生きる場所を失っている。
学長は、権力という居場所に縛られている。
グリンダは、好かれ続けることでしか居場所を保てない。
エルファバは、才能が突出しすぎて、構造の中に収まれない。

主人公たちは皆、「居場所がない側」に立たされている。

一方で、物語の背景にいる大多数の人たちは、最初から最後まで、自分の居場所を疑うことなく生きている。
社会のリズムと自分の生き方が自然に噛み合い、そこにいることを説明する必要すらない人たち。
その安定があるからこそ、社会は前に進み、回り続ける。
けれど同時に、その安定は、居場所を持てない人の感覚を想像しにくくもする。

悪意があるわけではない。
むしろ善意で、正しさで、親切であることのほうが多い。
それでも、「ここに居られない身体」や「そこに入れない人生」への配慮は、簡単にこぼれ落ちる。
そのとき、幸福は、静かに押し付けのかたちを取り始める。

オズ大王が語った「人々は、こういう象徴を欲しがるんだ」という一言が、どうしても引っかかっていた。
支配したいからではなく、委ねられる構造を演出しているだけだ、という視点。
そこには、人間の弱さと、構造の共犯関係が透けて見える。

同時に、自分自身の立ち位置も、否応なく浮かび上がってくる。
社会的にはエルファバ側に置かれやすい感覚を持ちながら、
同時に、オズ側の論理も読めてしまう位置。
どちらにも完全には属せず、どちらの言葉にも簡単には乗れない。

それは、ある意味で、ずっと「居場所の外側」に立ってきた身体の記憶ともつながっている。
実際に叩かれるわけではない。
でも、空気の中に漂う微細な圧力は、ちゃんと身体に届く。
証明できないぶん、余計に逃げ場がない。

今日書いた二本の記事は、その感覚を、少しだけ外に出したものなのかもしれない。
誰かを糾弾したいわけでも、答えを出したいわけでもない。
ただ、この社会がどんな呼吸で動いているのか、
そして、自分がどの位置でその呼吸を吸っているのかを、静かに確かめてみたかっただけだ。

画面を閉じると、部屋はいつもと変わらない静けさに戻る。
世界は何も変わっていない。
居場所がある人たちは、明日もきっと、何の違和感もなく世界と噛み合って生きていく。

その外側で、こちらは、少しだけ重力の輪郭を意識しながら、夜を迎える。

重力は、相変わらずそこにある。
けれど、重力の正体を少しだけ見てしまった、そんな夜。

コメント

タイトルとURLをコピーしました