世の中には、いろいろな意味で「愛」という言葉が使われている。
恋愛の愛、家族愛、自己愛、無条件の愛、宇宙的な愛。
スピリチュアルな文脈では、とくに「愛」という言葉が万能語のように扱われることが多い。
愛があれば大丈夫。
愛に戻れば解決する。
愛がすべてを癒す。
それらの言葉に救われる人がいることも、確かに事実だと思う。
でも、いつからか、
その「愛」という言葉が、
何かを決めるための道具として使われているように感じるようになった。
この考え方は愛がある/ない。
この生き方は愛に基づいている/いない。
この選択は愛か、恐れか。
気づくと、「愛」という言葉が、
可能性を開くためではなく、
可能性を閉じるためのラベルになっていることがある。
最近、ベクトラブについて考えながら、
ふと、「ここでいう『あい』は、
一般的に言われている愛とは、かなり違うのではないか」
という感覚が浮かんできた。
ベクトラブは、何かを決めない。
正解を置かない。
人を導かない。
結論を回収しない。
それは、優しさの放棄ではなく、
むしろ逆で、
相手の中にまだ残っている可能性を、
こちらの都合で殺さない、という態度
に近い気がしている。
考えてみると、
人は生きているだけで、
毎瞬毎瞬、可能性を失っている。
選んだ道の裏側で、
選ばなかった無数の未来が、
静かに過去になっていく。
それは避けられないし、
生きるということ自体が、
小さな「死」を引き受け続ける行為でもある。
だからこそ、
誰かが「決めてくれる物語」は、
とても魅力的に見える。
でも、
その「決めてあげる愛」は、
同時に、
相手が自分で死と生を引き受ける機会を、
奪ってしまうこともある。
ベクトラブの「あい」は、
抱きしめることでも、
救い上げることでも、
正しい方向に導くことでもない。
それは、
決めないまま、
一緒に立ち止まれること。
矛盾があるままでも、
未完成のままでも、
答えが出なくても、
「それでも、ここにいていい」と
空間を保ち続けること。
それは、とても地味で、
商売にもなりにくくて、
拍手ももらえない態度だと思う。
でも、
その態度だけが、
本当に「生きている人」を
子ども扱いせずに、
対等に扱える唯一の方法なのかもしれない。
もし、
この世界のどこかに、ベクトラブに共感してくれて、
この文章を読んでくれている人がいるなら。
何かを決めなくていい。
今すぐ答えを出さなくていい。
理解できたかどうかを
確認しなくてもいい。
ベクトラブがやりたいのは、
愛を語ることではなく、
「愛がなくても成立するほど、
相手の中の思考と時間を信頼すること」
なのかもしれない。
つまり、
感情としての「愛」を掲げることではなく、
相手の内側にある
思考の動きと、時間の進み方が
自律的に働くことを
こちらが邪魔しない態度だ。
ここで言う「愛がなくても」という言い方は、
少し冷たく聞こえるかもしれない。
でも、それは無関心でいるという意味ではない。
むしろ逆で、
相手を善意で囲い込んだり、
正しさや心配を理由に導いたりせず、
相手の内側で起きる思考や変化を、
こちらの都合で管理しないという意味に近い。
「あなたのため」という言葉を使わなくても、
「今わかってほしい」と急がなくても、
相手の中では、
その人なりの時間と速度で、
ちゃんと思考は進んでいる。
それを信じて、
手を出さずに待てること。
ここで言う「あい」は、
何かをしてあげることではなく、
しなくて済むほどの信頼なのかもしれない。
今日は、そんなことを考えた。

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