わかった、と思ったあとも、考え続けるということ

最近、
「自由意志」という言葉についても、
少し立ち止まって考えることが増えた。

スピリチュアルな文脈では、
「人には自由意志がある」
という言葉がよく使われる。

それ自体は、とても大切な前提だと思う。
誰かに決められた人生ではなく、
自分で選び、自分で引き受けるという感覚は、
人が生きる上での支えにもなる。

でも、よく見ていると、
そこにも少しややこしい構造が入り込むことがある。

「人には自由意志がある」と言いながら、
「すべての人は、自由意志がある前提で生きるべきだ」
という考えを、無意識に押し付けてしまうこと。

そして、
「それを理解できている自分」
と、
「まだ理解できていない相手」
という線を、どこかで引いてしまうこと。

気づくと、
自由意志という言葉が、
人を解放するためではなく、
新しい序列をつくる道具になっている。

でも、同時に思う。

それもまた、
とても人間らしい姿なのではないか、と。

完全に矛盾がなく、
傲慢さもなく、
誰も傷つけず、
常に適切な距離で世界を扱える存在。

もし、そんなふうに振る舞えたとしたら、
それはもう、
釈迦か、理想化されたAIのような存在で、
「人間」ではなくなってしまう気もする。

人はどうしても、
わかったと思った瞬間に、
少しだけ偉くなった気がしてしまうものなのかもしれない。

その感覚が、
言葉の端ににじみ出て、
誰かを傷つけてしまうこともある。

それでも、
間違えて、
傲慢になって、
ぶつかって、
それでも生きるのをやめない。

その不格好さごと引き受けながら、
考え続けてしまうところに、
人間の愚かさと、
そして、唯一の存在意義があるのかもしれない。

完璧であることよりも、
考えるのをやめないこと。

最近は、
そんなふうに思っている。

それに加えて、
スピリチュアルな界隈を見ていて、
もうひとつ、よく起きがちな構図がある。

それは、

・神
・愛
・目覚め
・自由意志
・統合

といった言葉が、

本来は人を縛らないための概念だったはずなのに、
いつのまにか
「わかっている人間であることの証明書」
のように使われてしまうことだ。

「それは愛じゃない」
「まだ目覚めていない」
「自由意志で選んでいない」
「統合できていない」

そんな言葉が出てきた瞬間、
話は静かに上下関係を帯びはじめる。

語る側は「わかっている側」になり、
聞く側は「まだの側」になる。

その時点で、
神や愛や目覚めは、
人を自由にする言葉ではなく、
人を測る物差しに変わってしまう。

皮肉なことに、
「縛られないための言葉」ほど、
扱い方を間違えると、
いちばん強い拘束力を持つ。

それは悪意というより、
人が「わかった気になりたい」
生き物であることの、
とても自然な帰結なのかもしれない。

だからこそ、
これらの言葉を使うときには、
どこかで一度、
足を止める必要がある気がしている。

それは本当に、
相手を自由にしている言葉なのか。
それとも、
自分が「わかっている側」に立つための
旗印になっていないか。

最近は、
そんな問いを、
自分自身にも向けている。

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