今朝、ひとつのニュースを読んだ。
東京のホームレスの年末年始。
風呂に入ること。
外食ができること。
それが「トレンド」として語られている現実。
記事を読みながら、
頭の中で何かを考えようとする前に、
身体のほうが先に反応していた。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
同時に、どこか冷える。
これは「意見」ではなく、
「状態」だと思った。
ホームレスに憧れる、という内容を含む記事を書いた。
現代文のN先生 第6話
それは生き方の比喩であり、
持たないこと、軽くあること、
問いから逃げない姿勢の象徴だった。
けれど、
現実のホームレスは、
象徴ではなく、身体そのものだ。
風呂に入れない身体。
寒さに晒される身体。
年末年始に「居場所」が消える身体。
思想は、
ここでは一切、役に立たない。
役に立つのは、
お湯と、屋根と、食事と、時間だ。
わたしたちは、
つい「意味」のほうへ逃げる。
これは象徴だ、とか。
これは構造の話だ、とか。
これは比喩だ、とか。
でも身体は、
そんな逃げ道を持たない。
身体はいつも、
今、ここにある。
そして世界も、
まずは身体に起こる。
文明とは何だろう。
問い続けることだろうか。
考え抜くことだろうか。
たぶん違う。
文明とは、
身体が壊れずに生き続けられる
インフラを維持することなんだと思う。
どんなに美しい思想も、
風呂に入れなければ、
身体は壊れる。
どんなに高尚な問いも、
食べなければ、
続けることすらできない。
「からだへ帰る」というのは、
優しい言葉じゃない。
それは、
現実を直視するということだから。
そこには、
ロマンも、飛躍も、救済の言葉もない。
あるのは、
冷たさと、重さと、具体だけだ。
それでも、
そこからしか始まらない。
たぶん、
あのニュースはこう言っていた。
「ここだよ」
「ここまで降りてきてね」
「身体の話を、忘れないで」
それは拒絶ではなく、
地面を指差すしぐさだった。
問いは、
空の上に浮かべておくものじゃない。
問いは、
身体が生きている場所でしか
成立しない。
そして、
身体が生きている場所は、
いつも少し厳しい。
でも、
だからこそ、
本物なんだと思う。
今日は、
考えすぎないことにする。
ただ、
身体の感覚を持ったまま、
世界を歩く。
それだけで、
十分な一日かもしれない。

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