紀伊國屋書店を歩いていて、
ふと、圧倒される瞬間があった。
本の数が多いから、ではない。
情報が溢れているから、でもない。
「ここには、考え続けてきた人間の痕跡が、
層になって積もっている」
そんな感じが、身体の奥に来た。
書店は「思考の地層」だ
棚に並ぶ本は、
ただのジャンル分けではない。
ビジネス書、資格書、実用書。
絵本、児童書、学習参考書。
趣味の棚、料理、アウトドア。
小説、エッセイ、漫画。
自己啓発、心理学。
それぞれの棚が、
その瞬間の人々が
何を手に入れようとしていて
何に追われ
何に疲れ
何に夢を見ているのか
を、
はっきりと分けた地層のように見えた。
ビジネス書が膨らんでいる場所には、
成果や正解を急ぐ気配がある。
資格書が並ぶ棚には、
不安と備えが滲んでいる。
趣味や実用書の前には、
「少し現実から離れたい」という呼吸がある。
漫画や小説の棚には、
説明されない感情や、
言葉にならなかった時間が溜まっている。
書店は、
ジャンルごとに分断された知識の集積ではなく、
社会全体の欲望と疲労が、
きれいに層をなして沈殿した場所
なのだと思った。
書店は、「知の倉庫」ではなく、文明のスナップショットなのかもしれない。平積みは、時代の悲鳴でもある
目についたのは
「〇〇という勇気」
「嫌われる勇気」
「前向きに生きる」
「課題の切り分け」
パラパラと眺めると、
正直、少し眩しすぎる。
でも、それは浅いからではなくて、
悩みや苦しみが切実すぎるから、
即効性があるように分かりやすい本になっているのだと思った。
平積みは、
売れるための工夫であると同時に、
「今、多くの人が、
どうにか自分を保とうとしている」
という、社会の声そのものでもある。
棚の配置には、哲学がある
心理学の棚の隣に、
精神世界やスピリチュアルの本が並んでいる。
科学と非科学が、
きれいに分断されていない。
それはたぶん、
人間の苦しみは、
まだ一つの言語では語りきれない
という、
書店側の無言の理解なのだと思う。
棚の並びは、
そのまま
「知をどう扱っているか」という
哲学の表明だ。
大人には、ガイドブックがない
子どもには指標がある。
0歳には「いない いない ばあ」
1歳には「しろくまちゃんのほっとけーき」
2歳には「はらぺこあおむし」
みたいにポップに書かれている。
発達段階に応じて、導線が用意されている。
でも、大人になると、
それは突然、なくなる。
誰も
「いまのあなたには、この本がいい」と
教えてくれない。
だから書店は、
大人がひとりで立ち止まっても許される場所
なのだと思った。
読まなくてもいい、買わなくてもいい
書店のいいところは、
何もしなくても満たされた気持ちになれるところだ。
読まなくてもいい。
買わなくてもいい。
ただ歩いて、
どの棚に身体が引き寄せられるかを見る。
それだけで、
- いまの自分が
- 何を気にかけ、
- 何に疲れ、
- 何を探しているのか
が、思考だけではなく、身体そのものも分かる気がする。
書店は、
思考のための場所であると同時に、
身体が反応する場である。
そして、人が本に惹かれて立ち読みを始める瞬間は、身体のベクトルが変わる瞬間なのだろう。
現代最強クラスのパワースポット
神社や仏閣が、
祈りや願い、無名の人々の念を
何百年も受け止め、湛えてきたように、
書店もまた、
- 書かれた言葉
- 書かれなかった言葉
- 読まれなかった問い
を、静かに溜め続けている。
それは、派手な力ではないけれど、
確実に「整える力」だ。
考えが少し静まる。
身体のピントが、少し戻る。
書店は、
そんなふうに
大人を守る場所なのかもしれない。

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