伏し目がちだった、現代文のN先生
N先生は、
いつも少し、伏し目がちだった。
体育教師のような、
分かりやすい威圧感はない。
声を荒げることもない。
体罰で押してくる強さもない。
けれど、
言葉と沈黙で、
教室の空気を張りつめさせる力があった。
こちらをまっすぐに見つめて、
「どう思う?」と問うタイプではなかった。
むしろ、
黒板や教科書、
あるいは
どこでもない一点を見つめながら、
問いを投げてくる。
その姿は、
当時の私には、
少し不安に映った。
なぜ目を合わせないのか。
なぜ断言しないのか。
なぜ、
答えを示してくれないのか。
今なら、
その理由が、
少しだけ分かる気がする。
あの先生が扱っていたのは、
「確かな答え」ではなかった。
死の恐怖。
善悪の揺らぎ。
人生の理不尽さ。
問いを閉じられないという事実。
そういうものを語るとき、
N先生自身も、
安全な場所に立つことはできない。
問いは、
必ず語る側にも跳ね返ってくる。
「では、N先生自身はどうなのか」
その視線を、
真正面から受け止め続けるのは、
簡単なことではない。
だから、
伏し目がちになる。
しかしそれは逃げではなく、
問いの強度に対する、
正直な姿勢
だったのだと思う。
教科書どおりに教える授業に逃げることも、
できたはずだ。
受験的な正解を示し、
「こう書けば点が取れる」と
教えることもできた。
それでも、
あの先生は、
問いを閉じなかった。
正解を教えながら、
正解だけで
世界が終わらないことを、
黙って示していた。
それは、
教師としては、
かなり不器用な生き方だ。
評価されにくい。
誤解されやすい。
苦手だと思われやすい。
それでも、
あの場所に立ち続けていた。
問いを、
教室に置いたまま。
この文章を書いていて、
私は何度も思った。
もしあの授業が、
もっと分かりやすかったら。
もっと優しかったら。
もっと救いが用意されていたら。
もしかすると、
ここまで考えることは、
なかったかもしれない。
問いを閉じなかったからこそ、
時間をかけて、
こちらが受け取り直す余地が
残されていた。
だから、
いまになって、
こうして書いている。
感謝を伝えるためというより、
あの問いが、
まだ生きていることを
確認するために。
拍手はしない。
「いい先生だった」と
まとめもしない。
ただ、
あの教室に、
問いから逃げずに立っていた
一人の大人がいた、
という事実だけを、
ここに残しておきたい。
それで、
十分だと思っている。

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