ディオゲネスと、ホームレスという憧れ
高校時代、
現代文の授業のなかで、
N先生がふと口にした言葉がある。
「私はね、
ホームレスになりたいんですよ。」
教室が、
一瞬、静まった。
冗談なのか、
挑発なのか、
それとも何かの比喩なのか。
当時の私には、
その真意が分からなかった。
ただ、
その言葉が
奇妙な重さを持って
空気の中に残ったことだけは、
覚えている。
今なら、
少しだけ分かる気がする。
その言葉は、
貧困を美化する話でも、
社会制度への単純な批判でもなかった。
それは、
装飾を剥いだ生き方への憧れ
だったのだと思う。
古代ギリシャの哲学者、
ディオゲネスは、
樽の中で暮らしていたとされる。
持ち物を極限まで減らし、
社会的評価や名声から距離を取り、
必要最低限の生活を選んだ人物だ。
彼がそう生きたのは、
能力がなかったからでも、
社会に敗れたからでもない。
むしろ逆で、
余計なものが多すぎることこそが、
人間を不自由にする
と考えたからだ。
何を持っているか。
どう見られているか。
どこに属しているか。
そうしたものが増えるほど、
人は、
本当に大事な問いから
遠ざかってしまう。
だから彼は、
意図的に、
持たなかった。
この話が、
なぜ現代文の授業に出てくるのか。
それは、
「読む」という行為そのものが、
ディオゲネス的だからだ。
文章を読むとき、
肩書きも、
立場も、
成功も、
いったん外さなければならない。
ただ、
言葉と向き合う。
どこから読んでいるのか。
どの距離で見ているのか。
装飾を剥がされた状態で、
世界と向き合う。
「ホームレスに憧れる」という言葉は、
その姿勢を、
極端な比喩で表したものだったのだと思う。
社会の外に出たい、
という話ではない。
問いから逃げられない場所に、
あえて立ち続ける
という話だ。
すべてを持っても、
問いが消えない人がいる。
一方で、
ほとんど何も持たなくても、
問いから目を逸らさない人がいる。
前澤友作と、
ディオゲネス。
時代も、
立場も、
状況も違う。
けれど、
どちらも
「問いを閉じない」という一点で、
どこか似ている。
そして、
あの現代文の先生は、
後者のほうに
強く惹かれていたのだと思う。
持たないこと。
軽くなること。
判断を急がないこと。
それは、
楽な生き方ではない。
むしろ、
安心できる足場を
自分から手放す行為だ。
だから、
あの先生の授業は、
いつも少し、
不安定だった。
だがその不安定さこそが、
あとから効いてくる。
問いを閉じない生き方とは、
そういう不安定さを、
引き受け続けることなのだと思う。
次の話では、
その先生が
どんな文学を選び、
どんな作品を
教室に持ち込んでいたのかを、
改めて見てみたい。
芥川龍之介、
松尾芭蕉、
カフカ。
偶然とは思えない、
選書の並びについて。

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