現代文のN先生 ー第5話ー

すべてを持っても、人は問い続ける

前澤友作氏の表紙について、
「好きか、嫌いか」を語ることは、
たぶん簡単だ。

見せすぎだとか、
挑発的だとか、
逆に誠実だとか。

けれど、
あの表紙が本当に引っかかるのは、
好悪の手前にある。

それは、
問いが、まだ終わっていない
という感じが、はっきりと残っているからだ。

多くの場合、
成功や達成は、
物語を閉じる。

ここまで来た。
これだけ手に入れた。
だから、もう十分だ。

そう言って、
世界を一つの意味に固定する。

だが、
あの表紙は、
その固定を拒んでいる。

全裸であることは、
単に何も身につけていない、
という意味ではない。

肩書きも、
役割も、
評価も、
善悪のラベルも、
いったん外した状態だ。

胎児のような姿勢は、
「始まり」を示しているようでいて、
実際には
「どこにも立っていない」
状態にも見える。

そして、
目を閉じている。

世界を見ていない。
判断していない。
説明していない。

これは、
世界に対して
「私はこう思う」と
言い切る姿ではない。

むしろ、
判断を一度、宙に浮かせた姿
に近い。

ここで、
よくある疑問が浮かぶ。

なぜ、
これほど多くを手に入れた人が、
まだ問い続けるのか。

なぜ、
満たされたはずの場所で、
立ち止まるのか。

その理由は、
案外単純なのかもしれない。

選択肢が増えれば増えるほど、
選ばなかった可能性も、
同時に増える。

あれもできた。
これもできた。
それでも、
できなかったことは残る。

すべてを持つということは、
すべてを試したわけではない、
という事実を
より鮮明にしてしまう。

人生が有限である以上、
どれほど条件が整っても、
問いは消えない。

善か悪か。
正しいか間違っているか。
成功か失敗か。

そうした二分法は、
見る位置を決めた瞬間に、
初めて成立する。

だが、
位置そのものを保留にしたとき、
世界は一気に不安定になる。

あの表紙が示しているのは、
その不安定さだ。

何者でもあり、
同時に、
何者でもない。

どちらにも転びうる。
いわば、
50対50の地点
に立ち続けている。

それは、
勇ましい姿ではない。

むしろ、
不安定で、
心許なく、
少し怖い姿だ。

けれど、
問いを閉じないというのは、
本来、そういうことなのだと思う。

世界を一つの意味に固定しない。
自分を一つの物語に閉じ込めない。

それは、
楽な生き方ではない。

だからこそ、
あの表紙は、
どこか現代文の授業を思い出させる。

答えを出さない。
正解を提示しない。
見る位置だけを、
そっと差し出す。

すべてを持っても、
人は問い続ける。

そして、
問い続ける限り、
世界は完全には
安心できる場所にならない。

次の話では、
この「安心できなさ」を、
もっと極端な形で引き受けた人たちの話をする。

持たないこと。
装飾しないこと。

ディオゲネスと、
「ホームレスに憧れる」という、
あの言葉へ。

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