現代文のN先生 ー第4話ー

話は飛ぶ。前澤友作という違和感

話は少し飛ぶ。

現代文の授業から、
いきなり一人の実業家の話になる。

前澤友作氏。
ZOZOの創業者で、
宇宙に行ったことで知られる人物だ。

彼が50歳の節目に出した本の表紙を、
たまたま目にした。

そこに写っていた姿に、
私は少し立ち止まった。

全裸。
胎児のような姿勢。
年齢相応の顔。
目は閉じられていて、
背景は宇宙空間。

一見すると、
どこかで見たことのあるイメージにも見える。

たとえば
『2001年宇宙の旅』の
スターチャイルド。

ただ、
決定的に違うところがあった。

あのスターチャイルドは、
こちらを見ている。

目を見開き、
眼球を動かして周囲を観察し、
すでに「評価する側」として存在している。

一方で、
前澤氏の表紙の人物は、
目を閉じている。

こちらを見ていない。
世界を測ろうともしていない。

そこにあったのは、
「達成」のポーズではなく、
むしろ
一度すべてを手放したあとの姿
のように見えた。

成功。
富。
評価。
善悪。

そういったものを
一度、脇に置いた状態。

すべてを手に入れた人が、
なお
問いの前に立っているようにも見えた。

少し意地の悪い見方をすれば、
「見せたがり」
「話題づくり」
とも言えるかもしれない。

それでも、
あの表紙には
ある種の誠実さが残っていた。

問いは、条件が整えば消えるわけではない
という誠実さだ。

お金があっても。
名声があっても。
経験を積んでも。

世界の見え方が、
完全に固定されることはない。

むしろ、
選択肢が増えれば増えるほど、
問いは重くなる。

「あれもできたはずだ」
「これも見たかった」
「まだ終わっていない」

すべてを持つことは、
すべてを選ばなかった可能性も、
同時に抱えることになる。

その意味で、
あの全裸の姿は、
成功の象徴というより、
判断を一度、停止した姿
に近かった。

ここで、
現代文の授業が
ふと重なる。

どこに立つのか。
どこから見るのか。

視点を固定した瞬間に、
世界は一つの意味を持つ。

だが、
その固定そのものが、
本当に正しいのか。

前澤友作氏の表紙が
引っかかった理由は、
そこにあった。

それは
「正しい解釈」を
提示していなかったからだ。

読む側に、
立ち位置を委ねている。

この話が、
なぜ現代文の先生の話と
つながるのか。

その理由は、
もう少し先で、
はっきりしてくる。

いまはただ、
世界をどう見るかという問いは、
教室の外に出ても、
終わらない

ということだけを、
置いておきたい。

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