思考は透明な妖怪である

── 下手の考え・ペリパトス・身体から立ち上がる輪郭 ──


「下手の考え休むに似たり」ということわざがある。
昔はこれを、「頭の悪い人はいくら考えても無駄だ」という、少し意地の悪い言葉だと思っていた。

でも最近、この言葉の意味が、まったく違って聞こえるようになった。


思考は「考えた」だけでは、存在しない

人間社会において、「考えた」ということは何を意味するのだろう。

実はそれは、
身体を通じて、外部に何かしらの履歴を残したこと
とほぼイコールなのではないか。

  • 声に出した
  • 言葉にした
  • 文章にした
  • スマホに入力した
  • 歩きながら誰かに話した
  • ノートに走り書きした
  • 行動に移した

これらはすべて、「思考を身体に通過させた」結果だ。

逆に言えば、
頭の中でどれだけぐるぐる考えていても、
身体を通って外に出なければ、
社会的には「何も起きていない」のと同じになる。

この意味で、

下手の考え休むに似たり

とは、
「身体を通らない思考は、休んでいるのと同じだ」
という、非常に冷静な観察なのかもしれない。


思考の上手い・下手とは何か

では、「思考が上手い人」とは誰だろう。

論理が鋭い人?
知識が豊富な人?

それもあるけれど、社会的に見ればもっと単純だ。

思考を履歴として残すのが上手い人。

  • 輪郭のある言葉にできる
  • 他人の身体に届く形にできる
  • あとから辿れる形で残せる

この「履歴化の技術」が、思考の上手さとして評価されている。

そして重要なのは、
その履歴化の発生源が、
頭ではなく、身体にあるということだ。


ペリパトスは、思想のジムだった

ソクラテスやアリストテレスが、歩きながら哲学をしたことはよく知られている。
ペリパトス(逍遥学派)と呼ばれる所以だ。

これは偶然ではない。

歩くことで、

  • 呼吸が変わる
  • リズムが生まれる
  • 視界が流れる
  • 身体の重心が移動する

こうした身体の変化が、思考に輪郭を与える。

座って考えると、思考は霧のように広がる。
歩くと、思考は像を結び始める。

哲学とは、
頭の中で完結する作業ではなく、
身体を鳴らすことで、思考を立体化する行為だったのだ。


思考は「透明な妖怪」である

ここで、一つの比喩を使いたい。

思考とは、
透明で、普段は見えない妖怪のようなものだ。

そこにいるのに、姿が見えない。
正体があるのに、輪郭がない。

では、どうすれば見えるようになるのか。

答えは単純で、
身体という楽器を鳴らすことだ。

  • 歩く
  • 話す
  • 書く
  • 身振りをする
  • 誰かと対話する

それぞれが、楽器だ。

ドラや大太鼓を鳴らす人がいる。
クラリネットのように細く音を出す人がいる。
バイオリン、フルート、木琴、鉄琴。

音色も、音量も、リズムも違う。

一人で鳴らせば、妖怪の一部が見える。
複数人で、違う楽器を鳴らせば、
透明な妖怪は、立体として浮かび上がってくる。

これが、対話であり、議論であり、共同思考だ。


思考は、身体の合奏である

思考は、最初から完成した形で存在しているわけではない。
鳴らされることで、少しずつ姿を現す。

だから、

  • 考えがまとまらない
  • うまく言葉にならない
  • 霧の中にいる感じがする

それは失敗ではない。

まだ、十分に鳴らしていないだけだ。

身体を動かし、
声を出し、
他人の音を聞き、
自分とは違う楽器の振動を受け取る。

その合奏の中で、
透明だった思考は、少しずつ輪郭を持つ。


たっくんの提案

たっくんが大切にしたいのは、
「正解の音」を決めることではない。

どんな楽器でもいい。
どんな音色でもいい。

鳴らすこと自体を、否定しない場。

そこで鳴った音が、
誰かの思考の輪郭を、
ほんの少しだけ、はっきりさせる。

それで十分だと思っている。

思考は透明な妖怪だ。
だからこそ、
鳴らす価値がある。

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