鏡の前に立つとき、人は「自分」を見ていると思い込んでいる。
でも、ほんとうは違う。
鏡には「彼(外の世界)」と「身(この身体)」と「我(解釈する意識)」の三つが、透けるように重なって映っている。
朝、洗面台の前で顔を洗い、歯を磨き、鏡を見る。
それは日常の、取るに足らない一瞬。
でもその一瞬は、私たちが「宇宙の構造をのぞきこむ儀式」でもある。
たとえば、雨の日。
しずくが鏡面に当たって、私の輪郭が歪む。
私が歪んでいるのではない。鏡の水面が歪ませているのだ。
にもかかわらず、多くの人は「ああ、自分は疲れて見える」と思い込む。
鏡が映しているのは、けっして「わたし」ではない。
「彼(対象)」と「身(この身体)」の間に、
「我」という解釈のレイヤーが立ち上がる。
そしてその「我」は、とても頑固だ。
光を受けとって、勝手に意味を塗り替える。
「今日の自分は不機嫌そうだ」と。
「ちょっと老けたな」と。
「目が死んでる」と。
でも、それは光の揺らぎが生んだ“幻”にすぎない。
鏡の構造を分解すると──
- 「彼」=外界。光そのもの。
- 「身」=それを受けとる身体。
- 「我」=受けとった情報を意味化する層。
つまり、鏡とは「世界」と「身体」と「解釈」がぶつかる接点。
この三層の交差点に、私たちの“自我”が一瞬、浮かび上がる。
昔、鏡は神聖なものとされていた。
伊勢神宮の八咫鏡もそうだし、世界中の神話に鏡は登場する。
それは「自己を見るための道具」ではなく、
「この世とあの世をつなぐ媒介」だった。
彼らは知っていたのだ。
鏡は「私」を映すのではなく、「世界と私の間」を映すものだと。
私はときどき、鏡の前で深呼吸をする。
鏡にうつるのは、ただの顔じゃない。
私の背後にある「滝」のような世界。
私の身体を通過する「流れ」。
そして、その流れを受けとめ、勝手に“意味”を作ろうとする「我」。
その三つが、静かに重なりあい、
ひとつの“像”を作っている。
では、「我」をそっと外してみたらどうなるだろう?
鏡の前で、何の解釈もせず、ただ見つめる。
すると、像が消えるわけではない。
むしろ、世界と身体の境界が薄れていく。
顔の奥にある“流れ”が、見えてくる。
人は、見えていると思っているものの大半を「我」で上書きしている。
もしその上書きを一瞬でも止められたら──
鏡は、ただのガラスではなく、「宇宙の窓」になる。
「鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだれ?」
子どものころ、絵本で読んだ魔法の言葉。
でも本当は、鏡は答えなんて持っていない。
ただ、世界と私の交差点を、ありのまま映すだけだ。
答えはいつも、見る側の「我」の方にある。
鏡をのぞきこむたび、私は思う。
ここにあるのは「私」ではなく、
「世界」と「身体」と「解釈」の三重奏。
そして、もし私が「我」を一瞬、手放せたとき──
鏡の奥に、滝のような流れが見える。
それはたぶん、世界の原型。
「称名滝」へとつながる、一本の細い道。