第1章 はじめに
――この判決は「一人の不正」の話ではない
バス運転手が、勤務中に1000円を着服した。
その結果、約1200万円の退職金が全額不支給となった。
最高裁は、この処分を「適法」と判断した。
このニュースを目にしたとき、
多くの人がまず思い浮かべるのは、
きっとこんな感想だろう。
「金額が少なくても、着服は着服だ」
「公務員なのだから、厳しくて当然だ」
「信頼を損なったのだから、仕方がない」
それらは、どれも自然な反応だと思う。
誰かの不正を目にしたとき、
社会が一定の線を引こうとするのは、
むしろ健全なことでもある。
けれど、この判決に触れたとき、
どうしても拭えない違和感があった。
それは
「厳しすぎる」という感情とも、
「かわいそうだ」という同情とも、
少し違う。
もっと手前のところで、
何かが雑に扱われている
という感覚だった。
1000円と、1200万円。
この二つの数字が、
ほとんど接続されないまま並べられている。
そこに、
段階も、途中も、
説明も見えない。
まるで、
スイッチを切るように、
「ゼロ」にされた印象だった。
このとき、
問われているのは本当に
「この運転手が悪かったかどうか」
だけなのだろうか。
この出来事を、
単なる一人の不正行為として処理してしまうと、
いくつかの重要な問いが、
最初から視界に入らなくなる。
たとえば、
- この仕事は、どんな条件で行われていたのか
- なぜ、そのような制度が採用されていたのか
- 退職金とは、そもそも何のための制度なのか
- この裁き方は、社会全体として最適だったのか
そうした問いは、
「不正はいけない」という一文の中に、
簡単に折りたたまれてしまう。
だが、制度というものは、
一人の人間の上だけで完結するものではない。
制度は、
誰かの時間の上に立ち、
誰かの身体の上に立ち、
誰かの我慢や集中の上に立って、
日々、静かに回っている。
その制度が揺れたとき、
表に出てくるのは、
たいてい「個人の行為」だ。
けれど、
その行為が起きるまでに積み重なっていた
前提条件や構造は、
あまり語られない。
今回の判決も、
一人の運転手を裁いたように見えて、
実は、
もっと広い場所を照らしている。
- 身体を使う仕事が、どのように扱われているか
- 制度設計の責任が、どこに置かれているか
- 信頼や功労や生活保障が、どのように混線しているか
- お金と価値が、社会のどこに集まりやすいか
そうした構造が、
たまたまこの事件を通して、
表に浮かび上がっただけなのではないか。
この論考は、
誰かを擁護するためのものではない。
誰かを断罪するためのものでもない。
問い直したいのは、
私たちが当たり前だと思っている制度の前提だ。
厳しさは、本当にそこに向けられるべきだったのか。
ゼロにすることで、何が守られ、何が失われたのか。
そして何より、
このやり方は、
これからの社会にとって、
持続可能な選択だったのか。
この先の章では、
- バス運転手という仕事の具体的な現実
- 「着服できる制度」が選ばれる理由
- 退職金という制度の構造的な混線
- 身体を使う仕事と、頭脳を使う仕事の配分
- 社会全体としての最適なバランス
を、一つずつ辿っていく。
この事件は、
決して特別な例ではない。
むしろ、
私たちの社会が長い時間をかけて作ってきた
価値の配分の癖が、
たまたま目に見える形になっただけだ。
この論考は、
その癖を、
一度ゆっくり眺めてみるための試みである。
次章2 バス運転手という仕事のリアリティでは、
「バス運転手という仕事が、
実際にはどのような負荷の上に成り立っているのか」
という、
もっと身体に近いところから話を始めたい。