人は、
どこまで自分で選んで生きているのだろう。
生まれた場所。
親。
時代。
身体。
気質。
そのほとんどは、
選んだ覚えがない。
この事実に向き合うと、
「運命」という言葉が
現実味を帯びてくる。
一方で、
人は確かに選んでいる。
言葉を飲み込むか。
言い返すか。
踏みとどまるか。
殴るか。
去るか。
すべてを選べないが、
何も選べないわけでもない。
ここに、
運命と自由意思の
奇妙な重なりがある。
運命とは、
スタート地点と、
大まかな力場のことだ。
どの層に生まれたか。
どんな磁力線の影響を受けるか。
これは、
ほぼ変えられない。
だが、
その中でどう振る舞うかは、
完全には決まっていない。
自由意思は、
「何でもできる力」ではない。
むしろ、
選ばなくてもいいものを
選ばずに済む力に近い。
怒りをぶつけるか。
沈黙するか。
利用するか。
距離を取るか。
選択肢は、
常に限られている。
運命と自由意思の分岐点は、
劇的な場面には現れにくい。
人生を変える決断。
大きな成功。
派手な選択。
そういうところではなく、
誰も見ていない瞬間に現れる。
・傷つけられたとき
・誤解されたとき
・優位に立てるとき
・報復できるとき
その一瞬で、
何を選ぶか。
何を選ばないか。
ここに、
自由意思が顔を出す。
重要なのは、
「正しい選択」をすることではない。
そもそも、
一本軸が未確定な世界では、
絶対的な正しさは存在しない。
問われているのは、
必要のない暴力を
選ぶかどうかだ。
運命は、
選べない条件だ。
自由意思は、
選ばなくていい行為を
減らす力だ。
この二つは、
対立していない。
むしろ、
自由意思は
運命の中でしか
立ち上がらない。
もし、
すべてを自由に選べたら、
選択は意味を持たない。
もし、
何も選べなければ、
責任も意味も生まれない。
その中間に、
人間はいる。
運命と自由意思の分岐点は、
人生のどこかに
一度だけあるのではない。
毎瞬、更新されている。
気づかれないほど
小さな分岐として。
人は、
運命から逃げられない。
だが、
運命の中で
どう振る舞うかは残されている。
その残りかすのような部分に、
人間らしさが宿っている。