退屈から存在論まで。

選挙事務をやっていると、独特の時間が流れる。

もちろん、社会に必要な仕事だ。誰かがやらなければならないし、制度を支えるうえでは大事な役割でもある。けれど、やっている当人としては、正直かなり退屈な時間でもある。大きな事故が起きてはいけない、しかし何も起きないことが前提になっている。緊張感が全くないわけではないが、刺激は少ない。時間だけがやけに長く感じられる。

そんなとき、ふと思った。

人間は、なぜこんなにも退屈を嫌うのだろう。

暇を持て余す、という言い方があるけれど、あれは本当に不思議な現象だと思う。身体が傷ついているわけでもない。命が危険にさらされているわけでもない。なのに、何も起きない時間が続くと、落ち着かなくなる。眠くなる人もいるし、イライラする人もいるし、ソワソワする人もいる。逆に嫌なことを考え始めて、鬱っぽくなることもある。

退屈というのは、ただ「やることがない」というだけでは説明できない。もっと根っこのところで、人間の構造に触れている気がした。

たぶん、退屈は「未来が過去のコピーになった」と脳が判断したときに生まれる。

同じ景色、同じ作業、同じ流れ。同じことがこの先も続くだろうと予測できてしまうと、人間は「もうここには新しい情報がない」と感じる。脳は予測装置みたいなものだから、予測が完全に当たり続ける状態では、新しい入力がないのとほぼ同じになる。そこで生まれるのが退屈なのだと思う。

つまり退屈とは、未来に新情報がないときに生じる感覚だ。

そして、だからこそ退屈はただの悪者ではない。退屈は、「ここにはもう情報がないから、どこか別の場所を探せ」という信号でもある。探索を始めるための起動音のようなものだ。実際、人は退屈すると新しいことをしたくなる。本を読む、スマホをいじる、誰かと話す、考えごとをする。何でもいいから、今とは違う何かを取り込みたくなる。

そう考えると、退屈というのは思考の余白でもある。

忙しいとき、人はあまり深く考えられない。やるべきことに追われて、目の前の処理で精一杯になる。忙しい、という漢字は「心を亡くす」と書くけれど、あの感じはかなり本質を突いている。忙しいときは、考えるための余白がない。だから深い思考は生まれにくい。

逆に、退屈なときは、心に空白ができる。何も起きないからこそ、頭の中で別のものが動き始める。退屈はしんどいけれど、同時に、人間が構造を考え始める入口でもあるのだと思う。

ここで次の問いが出てくる。

人間はなぜ、そんなにも「面白さ」を求めるのか。

結局のところ、人間が欲しているのは、ゲーム性なのではないかと思う。予測できないこと。工夫の余地があること。簡単すぎず、難しすぎず、少し頑張れば何かが変わること。そういうものに人は惹かれる。

そして面白いのは、ゲーム性が自由から生まれるわけではないということだ。

むしろ逆で、ゲーム性は制約から生まれる。

何でもありの世界は、実はゲームになりにくい。ルールがないと、選択に意味が出ないからだ。将棋や囲碁が面白いのは、動ける範囲が限られているからである。サッカーが面白いのは、手が使えないからである。人生が面白いのも、たぶん同じだ。

時間に限りがある。体には限界がある。能力にも差がある。環境にもランダムさがある。こうした制約があるからこそ、探索が生まれ、突破が生まれ、物語が生まれる。

人生にゲーム性があるのは、自由だからではなく、不自由だからだ。

ここで特に大きいのが、寿命という制約である。

よく考えると、不可逆性というのは少し不思議なものだ。こぼれた水は盆に返らない、という。しかし本当にそうなのかと言われると、少し怪しい。理論上、分子の動きを完全に追跡できて、全てを元通りに配置できるなら、水を元に戻すことも不可能ではないかもしれない。少なくとも、絶対に不可能だとは言い切れない。

それでも現実には、人間にはできない。なぜか。

時間が足りないからだ。

寿命が有限である以上、全てのパターンを試すことはできない。理論上は可逆でも、探索空間が巨大すぎて、プレイヤーの側が全探索できない。だから実質的には不可逆になる。

つまり、不可逆性というのは、世界そのものの絶対的な性質というより、有限のプレイヤーから見た性質なのかもしれない。

不可逆性は、寿命の副作用である。

これはかなり大きな話だと思う。人生が一回きりに見えるのも、失った時間が戻らないように感じるのも、出来事が重く見えるのも、寿命という制約の中でしか生きられないからだ。もし寿命が無限なら、同じ出来事も違って見えるだろう。何度でもやり直せるなら、いまほど一つ一つの選択は重くない。

選択に重みがあるのは、戻れないからではなく、全部は試せないからだ。

ここから、もう一つ面白いことが見えてくる。

人間が求める「完全なエンタメ」とは何か、という話だ。

刺激が強ければいいのかというと、そうでもない。現代は刺激だらけなのに、むしろ退屈している人が多い。ということは、エンタメの本質は刺激の絶対量ではない。

たぶん完全エンタメとは、認識可能領域を一〇〇パーセント満たすことだ。

昔、ファミコンが出たとき、それだけで十分に面白かった。誰も「インターネットがないから退屈だ」などとは思わない。当時の認識世界を、あれがしっかり満たしていたからだ。逆に今は、可能性を知りすぎている。もっとすごいもの、もっと便利なもの、もっと刺激的なものがあることを知っている。すると認識世界の空白が増え、同じ刺激でも満たされにくくなる。

そう考えると、人生そのものはかなり強いエンタメでもある。なぜなら、没入度が高いからだ。人は人生からログアウトできない。自分の体で感じ、自分の時間で進み、自分の失敗を抱える。そういう意味で、人生は非常に高い没入率を持っている。

ただしそれは、人間の可視範囲、可聴域、認識能力といった強い制限の中での一〇〇パーセントでもある。宇宙全体から見れば、人間が受け取っている情報はほんの一部だろう。それでも、その限られた範囲を十分に満たせれば、人は深く没入する。完全エンタメとは、絶対的な全知全能ではなく、認識世界の充足率なのだと思う。

ここで意識の話に入る。

意識とは何なのか。これを考えるとき、私は「ログ」という見方がしっくりくる。

宇宙は流れている。出来事が起こり、状態が変わり、ただ遷移していく。けれど、その流れだけでは観測は成立しない。全てが流れているだけなら、比較も記録もできないからだ。観測には、流れに対して何かしらの固定点が必要になる。

たとえばインターネット上を流れるデータだけでは、記録は安定しない。パソコンや記録媒体のような固定点があってはじめて、保存や再生や見返しができる。宇宙において意識が果たしている役割も、それに近いのではないかと思う。

宇宙が流れだとすると、意識は固定点だ。

固定点があることで、流れとの差分が立ち上がる。そこに記録が生まれ、観測が生まれる。意識とは、出来事のログを保存する装置なのかもしれない。

ただし、この固定点は一つだけではない。外側から見れば、観測点は無数にある。人間ひとりひとりが一つの固定点だし、もしかすると人間以外にも何らかの固定点はあるかもしれない。けれど内部から見ると、固定点はいつも一つしかない。自分視点では、自分だけが固定点だからだ。オンラインゲームで、運営から見ればアカウントは無数にあるが、プレイヤーから見れば自分のアカウントは一つしかないのと似ている。

では、その固定点はなぜ生まれるのか。

ここで私は、人体というものは「情報の反芻がちょうどいい感じ」に設計された装置なのではないかと思う。

入力された情報が、内部で少し反響する。すぐ消えるわけでもなく、いつまでも残るわけでもなく、適度にエコーする。この反響が短すぎると、刺激に対して反射するだけの存在になる。獣や虫に近い。逆に長すぎると、考えが回り続けて行動できなくなる。重度のうつ状態や、フリーズしたパソコンに近い。

人体は、このエコーの長さがほどよい。

外から入ってきた情報、少し前の情報、呼び起こされた記憶、そこから生まれる予測。それらが短い時間幅の中で重なり合い、「今」ができる。現在とは、情報が脳内で反響している時間窓なのだと思う。そしてその情報は、外部入力だけではない。過去記憶が現在再生されているものも混ざっている。今この瞬間というのは、外から来たものと、内部から立ち上がったものの混合物なのだ。

ここまで考えると、価値とは何かという問いも見えてくる。

ログそのものには価値はない。ただ記録されているだけでは、それはデータにすぎない。価値は、そのログを評価するメタ視点によって生まれる。未来の自分が過去の出来事を振り返って意味づけることもあるし、もし宇宙の外側にプレイヤーのようなものがいるなら、そちらの視点で評価されるのかもしれない。

価値は、出来事の中に最初から埋め込まれているのではなく、観測と評価によって立ち上がる。

そして、その価値を押し上げるのが希少性だ。

いつでも起きること、どこでも起きること、何度でも見られることは、価値密度が低い。逆に、起きにくいこと、一度しか起きないこと、失われたら戻らないことは、価値密度が高い。そう考えると、人生の中で最も希少なイベントの一つは死である。

死はログの終端だ。

それがあるから、途中の出来事にも意味が宿る。最後がなければ、途中も薄くなる。終わりがあるからこそ、いまが切実になる。

ここまで来ると、さらに大きな問いが出てくる。

そもそも、なぜ有限な存在があるのか。

無限というものを想像すると、そこには境界がない。境界がないということは、区別がない。区別がないということは、出来事も生まれない。出来事がなければ時間もなく、物語もなく、存在も立ち上がらない。

つまり、無限のままでは存在できない。

有限になることで、境界が生まれる。境界が生まれることで、こちらとあちら、前と後、自己と世界、過去と未来が分かれる。そうして出来事が起こり、時間が流れ、物語が始まる。

存在とは、無限を捨てることで生まれる。

有限な存在を「誰かが作った」というよりも、無限がそのままでは存在になれず、自らを区切ることでようやく存在できるようになった、というほうがしっくりくる。

そう考えると、最初に感じていた退屈さえ、少し違って見えてくる。

退屈とは、未来が過去のコピーになったときに生まれる感覚だった。言い換えれば、それは有限な存在が、情報の増加が止まったときに出すアラームでもある。ここにはもう出来事がない、このままでは物語が進まない、どこかへ探索しろ、と。

退屈は、思考の敵ではない。むしろ入口だ。

忙しいときには考えられない。余白がなければ、構造は見えてこない。退屈という空白があるから、人はそこに問いを差し込み、やがて存在論までたどり着くことができる。

選挙事務のような単調な時間の中で、私はただ「退屈だな」と思っていた。けれど、そこから考えを進めていくと、退屈は探索を呼び、探索はゲーム性を生み、ゲーム性は制約によって支えられ、制約の中心には寿命があり、寿命が不可逆性を生み、不可逆なログを固定点としての意識が観測し、観測された希少な出来事が価値になり、その終端として死があり、死を含む有限性そのものが存在を成立させている、というところまでつながっていった。

退屈から存在論まで、ずいぶん遠くまで来たようにも見える。

でも本当は、最初から全部つながっていたのかもしれない。

人間が退屈を嫌うのは、有限な存在だからだ。
有限な存在が、情報の増加を求め、物語を求め、存在を濃くしようとしている。
そう考えると、退屈というのは、存在が自分自身を先へ進めようとするときの、ごく自然な震えなのだと思う。

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