自由は本当に祝福か

自由は、
祝福だと言われてきた。

縛られないこと。
選べること。
自分で決められること。

それは確かに、
多くの苦しみから人を解放してきた。

けれど同時に、
自由はもう一つの顔を持っている。


自由は、逃げ場を消す。


自由がない世界では、
不幸の原因は外にあった。

制度が悪い。
時代が悪い。
環境が悪い。

だが自由が拡張されると、
原因は内側に移る。

「選べたはずなのに、
なぜそうしなかったのか」


ここで人は、
自分を責め始める。


自由とは、
「選べる権利」ではなく
「選んだ結果を引き受ける義務」
とセットで現れる。

この義務が、
思っているよりずっと重い。


自由が少ない社会では、
人生はレールに近い。

苦しいことも多いが、
迷いは少ない。

一方、自由が多い社会では、
人生は地図になる。

どこへ行ってもいい。
ただし、
迷った責任はすべて自分に返ってくる。


このとき、
自由は祝福であると同時に
試練になる。


人は本来、
完全な自由に耐えるようには
できていない。

理由は単純だ。

人は、
「意味」を必要とする。


自由が極端になると、
意味の外部供給が途絶える。

・正解
・役割
・物語

そういった、外から与えられる意味に「甘える」ことができなくなる。

すると人は、
自由の中で
宙吊りになる。


ここでよく起きるのが、
次の二つだ。

  1. 自由から逃げる
  2. 偽の意味にすがる

1つ目は、
強い指示、
強いリーダー、
強い思想への回帰。

2つ目は、
過激な正義、
単純な善悪、
分かりやすい敵。


どちらも、
自由の重さから
一時的に解放してくれる。

だから魅力的だ。


だが、
それは祝福ではない。

麻酔だ。


自由が本当に祝福になるのは、
ある条件を満たしたときだけだ。

それは、

選ばなくていいものを
選ばない自由
を持っていること。


すべてを自分で決めなくていい。
すべてに意味を与えなくていい。
すべてに意見を持たなくていい。

この「減算」ができるとき、
自由はようやく
人を生かす。


自由とは、
無限ではない。

扱える範囲に切り詰められた自由
だけが、
祝福になる。


もし今、
自由が苦しいなら、
それはあなたが弱いからではない。

自由が多すぎるだけだ。

タイトルとURLをコピーしました