― 使える人と、疲れる人の決定的な違い
「AIは鏡だ」という言い方を、最近よく聞くようになった。
使う人の知性や価値観が、そのまま映し出される。
だから、良い答えが返ってくる人は中身が優れていて、
うまく使えない人は、まだ準備ができていないのだ――
そんなニュアンスを含んだ言葉だ。
でも、この説明を聞いたとき、どこか引っかかる感じがしないだろうか。
もし本当にAIが鏡なら、
なぜ「使っていると疲れる人」と「使っていると楽になる人」がいるのだろう。
鏡を見て、どっと消耗する人と、少し姿勢が整う人がいる。
その差は、単純に「頭の良さ」や「理解力」なのだろうか。
実際には、そうは見えない。
AIを使っていると、
- だんだん言葉が増えていく人
- 考えが整理されていく人
- 一人で抱え込まなくなる人
がいる一方で、
- 使えば使うほど疲れる
- 返答を読むのがしんどくなる
- 「正解」を探して焦る
という人も確実にいる。
しかもこの違いは、
学歴や職業、ITリテラシーとはあまり関係がない。
では、何が違うのか。
疲れる人は「間違えないように」使っている
AIを使っていて疲れる人の多くは、
無意識のうちに、こう思っている。
「ちゃんとした質問をしなきゃ」
「変なことを聞いたらダメだ」
「自分の考えが浅いと思われたくない」
つまり、AIに評価される前提で使っている。
AIは人間ではない、と頭では分かっていても、
身体はわりと正直だ。
相手が「評価装置」に見えた瞬間、
呼吸は浅くなり、肩に力が入る。
この状態で言葉をひねり出すのは、正直しんどい。
しかも、AIは基本的に「きれいな言葉」を返してくる。
それがさらに、「ちゃんと返さなきゃ」という緊張を増幅させる。
結果、
考えるために使っていたはずのAIが、
考えを監視する装置のように感じられてくる。
これでは、疲れない方がおかしい。
楽になる人は「思考の途中」を出している
一方で、AIを使っていると楽になる人は、
少し使い方が違う。
質問が、雑だ。
途中だ。
言葉が足りていない。
「なんかモヤっとしてるんだけど」
「うまく言えないけど、こういう感じ」
「整理したいだけ」
完成度を気にしていない。
この人たちは、
AIを「答えを出す装置」としてではなく、
思考を広げたり、置いたりする場所として使っている。
重要なのは、
AIにどう思われるかではなく、
自分が今、何を考えているかだ。
だから、やり取りのあとに起きるのは、
- 少し肩が落ちる
- 考えが一段落する
- 「あ、こういうことかも」と小さく分かる
大きな啓示ではない。
でも、確実に楽になる。
差は「知性」ではなく「主語の位置」
ここまで来ると、違いははっきりしてくる。
疲れる人は、
AIを主語にしている。
「AIがどう言うか」
「AIは正しいか」
「AIにどう評価されるか」
楽になる人は、
自分を主語にしている。
「自分はいま何に引っかかっているか」
「この返答を読んで、身体はどう反応したか」
「少し楽になったか、余計に詰まったか」
つまり、問題はAIではない。
どこに判断の軸を置いているかだ。
この連載でやりたいこと
この連載は、
AIの使い方講座でも、
文明批評でも、
覚醒の話でもない。
やりたいのは、もっと単純なことだ。
「それを使ったあと、
あなたの身体はどうなっていますか?」
少し楽になっているか。
呼吸が戻っているか。
肩の力が抜けているか。
もしそうなら、
その使い方は、たぶん合っている。
もし疲れているなら、
それはあなたが劣っているからではない。
ただ、主語の置き場所がズレているだけかもしれない。
この連載では、
そのズレを少しずつ調整するための
「思考の地図」を置いていく。
正解は置かない。
覚醒も約束しない。
ただ、
自分の足で考え続けるための余白だけを、
静かに残していく。
次の章では、
その調整をするときに、
もっとも確実で、誰にも奪われない指標――
身体の反応について話していく。
「正しい説明」より先に、
「フッと緩む感覚」があることを。