人類は、支配や統治の正当性を、時代ごとに別の場所へ置き換えてきた。
族長の身体性、神の意志や血筋、武力と土地、憲法と納税額。
そして現代では、そのアンカーは「民意」に置かれている。
神や剣ではなく、人間の意思を正当性の基準に置いたという点で、民意は歴史的に見てかなり成熟した到達点だ。血筋や暴力によって運命が固定される社会より、はるかに人間的で、修正可能性も残されている。
問題は、民意そのものではない。
問題は、情報環境の変化によって、民意が「設計・誘導・加工可能な変数」へと変質しつつある点にある。
アルゴリズム、広告、SNS、感情の煽動、断片化された物語。
民意は、自然発生する集合意思というより、操作対象に近づいている。
さらに、民意によって選ばれた「実際に物事を決めている、ほんの一握りの人たち」の周囲は、構造的にブラックボックス化しやすい。
どの情報をもとに、誰の提案を受け、どのような判断をしたのか。そのログや検証可能性が弱ければ、失敗は学習されず、責任は個人に押し返される。
この不可視性は、資金の流れにも影響する。
企業の寄付、国からの補助金や税控除、自治体の意思決定。これらが健全に分離されていれば、お金は社会を循環する。しかし、意思決定の自律性が侵食されると、資金は「国・企業・自治体の一部」という閉じたループに吸い上げられ、ダム化する。
これは倫理の問題というより、設計の問題だ。
議員や首長が必ずしも契約・IT・財務・コンサルの専門家であるとは限らない。人間の認知帯域を超える複雑さを、個人の善意と責任感だけで運転させている構造自体が、すでに無理を孕んでいる。
このような構造に対して「投票する」という行為は、壊れかけた設計に対して「まだ有効である」という正当性を更新し続ける側面を持つ。個々の一票が直接悪を生むというよりも、ブラックボックスと責任転嫁の構造を温存させる力として働く可能性がある。
だから私は、「加担しない」という態度を選んでいる。
それは民主主義の否定ではない。
むしろ、民意という正当性アンカーを、次の段階へ更新できる余地を残すための距離の取り方である。
もし将来、AIによる意思決定ログの可視化、政策単位での評価、別シナリオのシミュレーションなどが一般化すれば、「誰を選んだか」よりも「何がどう決まったか」が正当性の基準になる可能性がある。民意は捨てられるのではなく、補正され、拡張されるだろう。
とはいえ、多くの人が投票という行為に満足し、その身体感覚が安定しているなら、それを外野が否定する必要はない。
私がしているのは、ただ、自分の身体が納得しない設計に、無理に参加しないというだけの、小さな倫理である。