正義はいつ暴力になるか

正義は、
守るためにある。

誰かを救い、
何かを良くし、
世界を前に進めるためのものだ。

それなのに歴史を見れば、
最大の暴力は、いつも正義の名で行われてきた。

これは偶然ではない。


正義と暴力のあいだには、
一本の境界線がある。

だがそれは、
法律でも
倫理でも
感情でも引かれていない。

もっと構造的な線だ。


正義が暴力に変わる境界線はどこにあるのか。

それは、

「選ばなくていい人にまで、それを選ばせているかどうか」

だ。


正義そのものは、
行為ではない。

正義は
判断軸だ。

そして暴力とは、
身体や心を傷つけることだけではない。

暴力とは、
自由意思を奪うことだ。


例えば、

・従わないと排除される
・異論を唱える余地がない
・沈黙が同意とみなされる

こうした状況は、
たとえ血が流れていなくても
すでに暴力が始まっている。


正義が強くなると、
説明は短くなる。

「正しいから」
「みんなのためだから」
「仕方ないから」

この言葉が増えたとき、
危険信号が灯る。


なぜなら、
そこではもう
相手の選択が考慮されていない。

正義が、
理由ではなく命令に変わっている。


ここで重要なのは、
善意か悪意かではない。

多くの暴力は、
善意から始まる。

むしろ
「自分は良いことをしている」
という確信があるほど、
歯止めは外れやすい。


正義が暴力に変わる構造は、
こうだ。

  1. 一本の正しさが掲げられる
  2. それが全体に適用される
  3. 適合しない個体が現れる
  4. 修正・排除・沈黙が行われる

このプロセスは、
静かに、合理的に進む。


恐ろしいのは、
この過程に
加害者の自覚がほとんどないことだ。

正義の内部にいる人は、
自分を暴力者だと思わない。

「正義を守っているだけ」
だからだ。


では、
正義は使ってはいけないのか。

違う。

問うべきは、
その正義を誰が選んだのか
という一点だ。


・自分で選んだ正義
・他人に選ばされた正義

この差は、
決定的だ。

後者は、
どんなに美しくても
必ず暴力を含む。


正義が暴力にならないために
必要なのは、

「従わせる力」ではなく
「降りる余地」だ。

・拒否できる
・距離を取れる
・別の選択肢が残されている

この余白がある限り、
正義はまだ暴力ではない。


暴力とは、
殴ることではない。

逃げ場を消すことだ。

そして正義は、
逃げ場を消しやすい。

それほど強い。


だから正義を語るとき、
一番大切なのは
声の大きさでも
論理の強さでもない。

「降りられますか?」
と自分に問えるかどうかだ。

タイトルとURLをコピーしました