悪意がなくても世界は歪む

世界が歪むとき、
そこに必ず「悪い誰か」がいるとは限らない。

多くの人は、
苦しみが生まれると、
原因となる「人格」を探そうとする。

誰が悪いのか。
誰の責任なのか。
誰を裁けばいいのか。

けれど、
現実の歪みの多くは、
誰の悪意も必要としない


たとえば、
磁石の上に砂鉄を撒くと、
砂鉄は磁力線に沿って整列する。

そこに、
砂鉄同士の相談はない。
意図も計画もない。

ただ、
力場に反応しているだけだ。

人間の社会にも、
よく似た現象が起きる。


制度。
評価基準。
報酬設計。
期待。
恐怖。

それらは、
誰かが悪意をもって作ったものではないことも多い。

むしろ、
善意や合理性から生まれたもののほうが多い。

それでも、
人の動きは揃い、
選択肢は偏り、
ある方向に力が集中する。

歪みは、
構造の副作用として現れる。


悪意がないから、
誰も止めない。

悪意がないから、
誰も責任を取らない。

そして、
悪意がないからこそ、
歪みは長く続く。


このとき、
歪みの中にいる人は、
自分を責めやすい。

努力が足りない。
適応できない。
自分が弱い。

だが、
個体の問題ではない。

力場の中で、
そう動くしかない配置

になっているだけだ。


悪意を探す視点は、
分かりやすい。

敵がいれば、
戦える。
怒れる。
物語が作れる。

しかし、
悪意のいない歪みは、
扱いにくい。

戦う相手がいない。
断罪できない。
カタルシスもない。

ただ、
疲弊だけが残る。


だからこそ、
必要なのは視点の切り替えだ。

「誰が悪いか」ではなく、
「どんな力が、どこに集まっているか」を見る。

その力は、
止められないかもしれない。

でも、
距離を取ることはできる。
巻き込まれ方を変えることはできる。


悪意がなくても、
世界は歪む。

そしてそれは、
絶望ではない。

悪意がないということは、
修正の余地がある
ということでもある。

構造は、
人格よりも遅く、
だが確実に変えられる。


歪みを見抜いたとき、
怒りより先に
虚しさが来るかもしれない。

それでも、
見えたということ自体が、
すでに一歩外に出ている証拠だ。

悪意を探さなくていい。

歪みは、
構造として扱えばいい。

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