内言は誰の声か

人は、一日にどれくらいの言葉を、
頭の中で聞いているのだろう。

「まだ足りない」
「ちゃんとやれ」
「それじゃダメだ」
「もっと頑張れ」

声として鳴っているわけではないのに、
確かに「聞こえる」。

この内側の独り言を、
人は「自分の考え」だと思っている。

でも、
それは本当に自分の声だろうか。


内言は、
無から突然生まれるわけではない。

その多くは、
かつて外から浴びた言葉が、
内部で反射し、
定着したものだ。

親の声。
教師の声。
上司の声。
社会の空気。
成功者の語り。

それらが、
いつの間にか主語を失い、
自分の声のふりをして再生される

内言とは、
外部刺激の「保存形式」でもある。


ここで厄介なのは、
内言には「音量調整」がないことだ。

外の声なら、
距離を取ることができる。
耳を塞ぐこともできる。
その場を離れることもできる。

でも内言は、
逃げ場がない。

沈黙の中でも鳴る。
夜中でも鳴る。
何もしていなくても鳴る。

だから人は、
沈黙よりも入力を選ぶ。

外の音で、
内言をかき消そうとする。


では、
内言はすべて「偽物」なのだろうか。

そうとも言い切れない。

内言の中には、
確かに自分の身体感覚と結びついたものもある。

疲れているときの「もう無理だ」。
違和感に対する「何かおかしい」。
安心したときの「大丈夫」。

それらは、
外から植え付けられた言葉というより、
身体の状態が言葉になったものだ。

問題は、
両者が混ざって聞こえることにある。


内言を「止めよう」とする必要はない。

むしろ、
止めようとすると増幅する。

大切なのは、
その声にすぐ従わないことだ。

正しいかどうかを判断しない。
否定もしない。
採用もしない。

ただ、

「今、何かが喋っているな」

と、距離を取る。

それだけで、
内言は“命令”から“現象”に変わる。


内言は、
意志ではなく、反射に近い。

だからこそ、
責任を持たせすぎないほうがいい。

内言に従わなかったからといって、
裏切り者になるわけではない。

内言に従ったからといって、
自分らしいとも限らない。

それはただ、
内部で鳴っている波の一つだ。


「自分の声を聞こう」「自分軸を持とう」という言葉は、
ときに人を追い詰める。

聞こうとしても、
どれが自分の声か分からないからだ。

でも、
最初から見分ける必要はない。

外から来た声と、
内側から立ち上がった感覚は、
時間をかければ、自然に分かれていく

沈黙や、
身体の感覚や、
反応の遅れの中で。


内言は、答えではない。

ただの通過点だ。

誰の声か分からなくてもいい。
黙らせなくてもいい。

少し距離を取って、
聞き流せるようになる。

それだけで、
世界はだいぶ静かになる。

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