1. 社会を「人体」として見るということ
社会を「人体」として捉えると、とても多くの構造的な類似が浮かび上がる。同僚との会話の中で、そのことが強く意識された。
同僚はこう言った。
市民一人ひとりの声を無視してはいけないのは分かっている。
しかし、担当が1人しかいない状況で、直接電話を受けていたら、時間がいくらあっても足りない。
この指摘は、単なる業務負担の問題ではない。そこには「どこまでを受け止め、どこを整理し、中枢に届けるべきか」という情報設計の問題が隠れている。
ここで、社会を人体のように読み替えてみる。
もし、身体のすべての細胞が、自分の状態を直接脳に問い続ける設計だったらどうなるか。酸素の不足でも、微細な化学物質の変化でも、細胞のひとつひとつがダイレクトに判断を求めてきたら、脳はすぐに処理能力の限界に達する。身体は動かなくなるか、誤作動を起こすだろう。
実際の人体では、末端の情報は神経系を通じてフィルタリングされ、整理され、優先度の高いものだけが中枢に届けられる。反射として処理できるものは最初に処理され、意識として扱うべき重要な信号だけが、意識系の判断部位へと向かう。この選別と伝達の仕組みこそが、個体としての恒常性を保つための「神経設計」である。
この視点で制度を見直すと、「市民の声を、なんでもすべて受け付けるべきである」という直観はむしろ危険であることが分かる。行政の中枢がすべての声を等価に扱い、中枢で一々それを判断しようとすると、システムは容易に詰まる。
AIのような技術が発達し、一個人が論理的なクレームを大量に発信できるようになれば、なおさらだ。制度は「量」を受け止めるための構造ではなく、「どの情報を、どの経路で、中枢へ届けるか」を設計しなければならない。
こうした構造的問題を読み解くために、ミトコンドリアという比喩が有効になる。
ミトコンドリアは、ひとつひとつの細胞の内部に存在し、エネルギーを供給する。単独では判断を行わないが、身体全体のエネルギー循環に不可欠な役割を担っている。社会においても、一人ひとりの市民は、単独で判断する存在ではなく、情報とエネルギーの循環を支える存在として位置づけられるべきである。
市民の声を整理し、中枢が健全に機能するためには、どこまでを現場で受け止め、どこからを整理・集約して判断材料とするか、制度として明示する必要がある。これは、情報工学的な意味でも、神経生物学的な意味でも本質的に同じ構造の問題である。
社会の設計は、単なる効率化や最適化ではなく、どの情報が身体のどの位置から上がってくるべきかという「神経設計」として読み替えることができる。この読み替えは、制度の硬直や情報過負荷を捉え直す強力なフレームワークになる。
ミトコンドリア文明モデルは、こうした情報伝達と判断の流れを読み解くための比喩であると同時に、社会が抱える制度的なズレを身体の設計という普遍的な構造へと接続する道具でもある。
この視点を得ることで、制度の設計そのものが、「すべてを受け止めること」から「どの情報を、どの経路で、どの判断部位へ送るか」という神経系の設計へと転換していく可能性が見えてくる。
2. 脳とミトコンドリアの分断
社会を人体として読むとき、もう一つ見えてくる重要な構造がある。それは「脳と手足が分断された身体は、長く生きられない」という単純だが根源的な事実である。
この感覚は、ある音楽大学の学生についての会話から浮かび上がった。
ある人はこう語った。
この音楽大学の学生は、礼儀正しく、部外者にも笑顔で会釈し、校内で歩きスマホもしない。育ちがいい。
一見すると、これはとても好ましい評価に聞こえる。規律があり、穏やかで、環境としても美しい。
しかし、その「美しさ」はどこから生まれているのか。
音楽大学で音楽に専念できる生活は、学生本人の努力だけで成立しているわけではない。その背後には、親の労働があり、インフラの維持があり、治安や社会制度がある。数え切れない負担が、その学生の生活の裏で、どこかに引き受けられている。
食料が生産され、電気が灯り、建物が清掃され、道路が整備され、ゴミが回収され、物流が止まらない。そのすべてが、誰かの身体の時間と労力によって支えられている。
もしその「身体の痛み」や「負荷」を完全に意識から切り離したまま、整った環境だけを享受しているとしたら、それは人体において、脳が末端の感覚を失っている状態に近い。
末端の神経が断たれた身体は、最初は快適に感じるかもしれない。痛みを感じない。疲労も伝わらない。不快な情報は遮断される。しかし、その状態が続けば、傷は放置され、炎症は広がり、やがて全体の機能が破綻する。
痛みは不快な信号だが、本来は「全体を守るための警告装置」でもある。
社会においても同じことが起きる。文化的に洗練された空間、秩序だった環境、快適な教育環境は、それ自体として否定されるものではない。問題は、それが「どのような身体的コストの上に成立しているのか」が不可視化され、つながりを断ったまま、固定化されてしまうことである。
音楽を奏でる人間が、社会の身体が引き受けている負担や痛みと切断されたまま存在するとき、その音は、どこかで「浮遊」するだろう。限りなく美しくはあるが、人の感情に届かない、地面に接地していない音になるのではないか。
これは倫理の問題というよりも、構造の問題である。身体と意識が分断された生物が長く生きられないのと同じように、社会においても、中枢と末端が感覚的に断絶した構造は、いずれ不安定化する。
脳は、手足がどれほど疲れているかを感じ取らなければ、適切な判断を下せない。逆に、手足が脳の判断と完全に無関係に動き始めれば、身体は統合を失う。
社会もまた、同じ「統合の設計」を必要としている。
礼儀正しさや洗練された態度が本当に成熟したものであるためには、それが、社会が引き受けている身体的な負荷への理解と接続されている必要がある。単なる育ちの良さではなく、「自分が立っている場所が、どのような身体の連鎖の上に成立しているのか」を感じ取れているかどうかが問われる。
ミトコンドリア文明モデルは、この断絶を可視化するための比喩でもある。細胞の内部でエネルギーを生み出すミトコンドリアは、意識を持たないが、身体の生存を根底から支えている。その存在が軽視され、切り捨てられる設計では、いずれ全体の代謝が破綻する。
社会においても、末端の身体が引き受けている負荷が「見えないもの」として処理され続ける限り、構造的な疲弊は蓄積し続ける。それはゆっくりと進行するが、確実に全体の機能を蝕んでいく。
文明が長く持続するためには、脳と手足、判断と身体、快適さと負荷が、適切な感覚回路によって再び接続されなければならない。この接続が断たれたままの社会は、見かけの安定とは裏腹に、内部で静かな壊死を進行させている可能性が高い。
3. 痛みが届かない構造
人体において、痛みは単なる不快な感覚ではない。それは、局所で起きた異常を、全体の判断系に即座に伝えるための情報装置である。指先に小さなトゲが刺さっただけでも、意識はそれを強く認識する。痛覚は末端で発生するが、処理は中枢で行われる。この設計によって、生物は「些細な異常」を放置せず、全体としての生存を守ってきた。
もしこの回路が断たれていたらどうなるか。
末端は傷つき続けるが、脳はそれを知らない。炎症は進行し、感染は広がり、気づいたときには取り返しがつかない状態になっている。痛覚は、身体にとって「うるさい装置」ではなく、「最小コストで最大リスクを回避するための早期警報システム」なのだ。
この構造を社会に当てはめると、非常に不穏な像が浮かび上がる。
現代社会では、末端で生じている身体的負荷や生活の疲弊が、中枢の意思決定層にほとんど伝達されない。物流現場、介護、清掃、建設、配送、農業、コールセンター、現場労働。そこでは慢性的な疲労、怪我、低賃金、時間的圧迫が蓄積しているが、その痛みは「統計」「コスト」「自己責任」という言葉で抽象化され、遮断される。
右手の人差し指にトゲが刺さっても、脳が「それは指の自己責任だ」と判断して無視するような構造である。
さらに悪いことに、感染が進行した指を切断し、別の身体から新しい指を調達すればいい、という発想までが制度化されている。国外の安価な労働力、短期契約、使い捨ての人材、外注化、下請け構造。これは生物で言えば、自分の手足を犠牲にしながら、他人の身体を移植し続けるような運用である。
短期的には合理的に見える。だが長期的には、身体の統合性が崩れ、全体の免疫が弱体化する。
この構造は、漫画『寄生獣』に描かれたパラサイトの生態と驚くほど似ている。
パラサイトは、自らは繁殖できず、人間の身体を食べて生存する。狩猟も栽培もせず、他者の生命活動に依存してエネルギーを得る。
現代の資本主義における極端な富裕層の振る舞いも、構造的にはこれと近い。自分では食料を生産せず、衣服を縫わず、インフラを維持せず、清掃もしない。他者の時間と身体を貨幣を介して吸い上げることでのみ生活が成立する。
問題は「富を持つこと」ではない。問題は、その富の循環設計が、身体の痛覚を遮断したまま肥大化している点にある。
人体において、もし脳が痛覚を遮断し続ければ、自己破壊が進行する。社会においても、末端の負荷を感知しない中枢は、いずれ構造的な崩壊を招く。
ここで重要なのは、「倫理」や「善悪」ではない。
設計の問題である。
生物が生き延びるために獲得してきたのは、「末端の異常を、即座に全体に伝える通信構造」だった。社会はその通信構造を、効率化と分業の名のもとに切断してしまった。
その結果、痛みは「個人の問題」に押し込められ、全体最適の設計から排除されていった。
だが、本来、痛みとは「全体の舵取りに必要な情報」である。不快だからこそ、無視できない。不都合だからこそ、判断材料になる。
ミトコンドリア文明モデルは、ここに再接続の必要性を示している。
末端が感じている負荷、疲労、リスク、摩耗が、中枢の意思決定にリアルな形で反映される回路。痛みを切り捨てる社会から、痛みを設計に組み込む社会への移行。それは、弱者保護という情緒的な話ではない。生存システムとしての合理性の話である。
身体を持つ存在が、身体の信号を無視して長く生きられないのと同じように、
社会もまた、身体的な痛覚を遮断したまま、持続可能ではありえない。
4. 透明性という神経系
では、社会に「痛覚」を取り戻すとは、具体的にどういうことなのか。
理想論としては、末端で生じた負荷や不合理が、即座に中枢の意思決定に伝わる構造を作る、ということになる。
だが、現実の社会はすでに巨大な「慣性」を持って動いている。
制度、予算、利害、既得権、慣習。
いきなりすべてを理想通りに切り替えることはできない。
必要なのは、痛みを「感情」ではなく「情報」として扱える設計だろう。
身体において痛覚は、感情ではなく信号だ。神経を通じて、位置・強度・持続時間が即座に伝達される。社会においても同じように、負荷を数値・履歴・構造として可視化する必要がある。
たとえば、自治体の旅費精算という、ごく小さな業務を考えてみる。
たった200円の電車移動であっても、その過程には膨大なプロセスが横たわっている。
予算要求のための積算資料作成に始まり、財政当局による査定、そして議会での議決を経てようやく予算として成立する。
執行に際しても、事前の旅行命令と支出負担行為による予算確保が不可欠だ。
さらに、出張時には職員が自腹で立て替えを行い、帰庁後も請求書の作成、会計処理、振込、そして監査対応と事務手続きが続く。
実態として、これら一連の事務に費やされる人件費は、移動費そのものを遥かに上回っている。
にもかかわらず、その非効率は、誰の身体にも直接的な「痛み」として返ってこない。
帳簿上は正しく処理され、制度上は問題がないからだ。
ここに、単純な実装変更を入れることは可能である。
職員共通の交通系ICカードを用意し、すべての業務移動をその履歴で管理する。
履歴は日次で公開され、誰でも確認できる。
寄り道や例外があれば、理由書を出す。
これだけで、旅費精算という業務は劇的に簡素化される。
同時に、「不正」「無駄」「曖昧さ」が構造的に減少する。
重要なのは、誰かを監視することではない。
ログが残るという設計そのものが、行動を自然に整える。
「たった200円のために信用や職を失うリスクを取るのは全く割に合わない」と、身体が先にブレーキをかける。
これは倫理ではなく、身体によるリスク評価である。
社会の痛覚実装とは、このように「摩擦の見える化」を通じて、判断と責任の回路を短くすることに近い。
同じことは、予算執行、委託契約、補助金、公共事業、人事配置、評価制度など、あらゆる領域に拡張できる。
誰が得をしているのか。
誰が負荷を引き受けているのか。
お金と時間と労力の流れが、追跡可能な形で見えるようになるだけで、社会の振る舞いは大きく変わる。
ここでAIが果たせる役割は大きい。
ただし、AIを「判断主体」や「神」のように扱うべきではない。
AIは意思決定者ではなく、人体で言うところの「神経系」に近い。
膨大なログ、履歴、数値、流れを統合し、人間の認知では捉えきれない偏りや歪みを可視化する。
どこに負荷が集中しているのか。
どこで資源が滞留しているのか。
どの設計が持続不可能になりつつあるのか。
それを「痛みの信号」として提示する役割が、AIには向いている。
最終的な判断と責任は、人間の中枢が引き受けなければならない。
脳が痛覚を無視し続けると身体が壊れるように、
中枢がAIの警告を無視し続ければ、社会もまた歪んでいく。
逆に言えば、AIを神経系として適切に組み込めば、社会は再び「身体を持った存在」に近づく。
誰かの苦しみが、統計の奥に埋もれず、
設計の判断材料として戻ってくる社会。
痛みを切り捨てるのではなく、痛みを使って設計を更新していく社会。
ミトコンドリア文明モデルが目指しているのは、
効率の最大化ではなく、統合性の回復である。
5. スピード文明の生理不全
現代社会のもう一つの大きな特徴は、あらゆるものが「速さ」を基準に評価される点にある。
より早く。
より多く。
より効率的に。
より成長的に。
この速度信仰は、あたかも自然法則のように扱われているが、人体モデルで眺めると、かなり不自然な構造をしている。
人体の細胞は、他の細胞よりも早く分裂しようとはしない。
より多くの栄養を独占しようとも思わない。
全体のバランスを崩してまで、自分だけが成長しようとする細胞は、がん細胞として排除される。
本来、生命システムにおいて「競争」とは、環境との適応競争であって、内部同士の奪い合いではない。
内部競争が激化すると、システム全体の寿命は短くなる。
にもかかわらず、資本主義社会では、「他者より先に利益を取った者が勝者になる」という設計が制度レベルで組み込まれている。
締め切りがある。
市場が奪い合いになる。
資源が囲い込まれる。
ここには、生物学的な必然性はない。
あるのは、制度設計の慣性だけである。
宇宙レベルで見れば、文明の到達点に「締め切り」は存在しない。
人類が100年かけて到達する地点に、ちょっと急いで80年で到達したからといって、宇宙は何も評価しない。
過労死ラインを超えて働く意味も、本質的には存在しない。
もし全員でゆっくり進み、120年かかって同じ地点に到達したとしても、宇宙的には何の問題もない。
それでも社会が加速し続けるのは、「敗者が生存を脅かされる構造」が埋め込まれているからだ。
わずかでも遅れれば市場から排除される。
資本を失えば生活の破綻へと直結する。
勝者が利益を独占するこの設計こそが、際限のない競争のエンジンとなっている。
このことを人体モデルに照らせば、明らかに異常である。
特定の細胞が他の細胞から栄養を奪い取り、自分だけ肥大化する構造は、生命の循環ではなく、寄生や腫瘍そのものだ。
全体の循環を壊してまで自己拡大する挙動は、生命としては持続不可能である。
実際、現代の富の集中構造は、極端に偏っている。
一部の富裕層が享受する、本来は一個人の労働では到底届かない規模の富と消費は、他者の時間と身体を「土台」にすることで成立している。
物流、農業、インフラ、清掃、介護、保守。
どこかの誰かの見えない身体労働という「実体」の上に、抽象化された富が積み上がっている。
ここで重要なのは、道徳批判ではない。
構造の問題である。
「他者が苦しんでも、自分が儲かれば合理的」という行動が、制度上、最適解として成立してしまう設計そのものが、人体モデルと矛盾している。
人体では、指先が傷つけば、全体が痛みとして反応する。
中枢が無関心でいることは許されない。
もし脳が「指先が壊れても、自分は痛くないから関係ない」と判断するなら、その身体は長く生きられない。
資本主義社会は、まさにこの「痛覚の断絶」を制度化してきたとも言える。
末端で起きている過労、貧困、消耗、危険は、統計として処理され、抽象化され、中枢の意思決定から切り離される。
結果として、社会全体は加速し続けるが、身体は摩耗し続ける。
文明の時間感覚そのものが、歪んでいる。
本来、生命システムは「持続」を最優先に設計される。
短期的な最大効率よりも、長期的な安定が優先される。
休息、回復、余白、冗長性が組み込まれている。
にもかかわらず、現代文明は、余白をコストとみなし、冗長性を無駄と切り捨て、休息を怠惰として扱ってきた。
これは、生物として見れば、かなり危険な設計である。
ミトコンドリア文明モデルが示しているのは、
「速さ」ではなく「循環」を基準にした文明設計への転換である。
どれだけ早く成長したかではなく、
どれだけ安定して循環しているか。
どれだけ勝ったかではなく、
どれだけ全体が生き延びているか。
時間を敵ではなく、環境として扱い直すこと。
文明を短距離走ではなく、代謝として設計し直すこと。
その視点が欠けたまま、速度だけを上げ続ける文明は、やがて自分自身の身体を壊す。
6. 責任を引き受ける中枢へ
ここまでの話を、もう一度、人体の比喩に戻して整理したい。
社会を一つの生命体と見たとき、
市民はミトコンドリアであり、
行政・制度・中枢は脳に相当する。
ミトコンドリアは、自律的にエネルギーを生み、身体を支えるが、全体の判断は行わない。
脳は、全体の方向性を決めるが、現場の物理的な痛みや疲労を直接引き受けることはできない。
両者は役割が異なる。
しかし、「運命」は完全に共有されている。
本来、生命システムでは、末端の異常は即座に中枢へ伝達される。
痛覚とは、局所の問題を「全体の問題」へと昇格させる装置である。
放置すれば全身へ波及し、生存を脅かす可能性があるからこそ、最優先で意識に届けられる。
ところが現代社会では、この伝達経路が制度的に遮断されている。
末端で起きている過労、貧困、事故、消耗は、数字や報告書や統計へと変換され、感覚から切り離される。
中枢は「痛み」を感じないまま、合理性だけで意思決定を行う。
その結果、身体が壊れていく速度と、制度が修正される速度の間に、致命的なズレが生じる。
この構造は、寄生モデルに近い。
寄生体は、自分では栄養を生み出さず、宿主から奪い続ける。
宿主が弱れば、別の宿主へ移動する。
短期的には効率的だが、長期的には生態系を破壊する。
現代の富の集中構造も、よく似ている。
富裕層は、自分の身体労働では維持できない規模の資源を、他者の時間・身体・リスクの上に成立させている。
物流、農業、清掃、建設、介護、保守。
その現場の痛みは、消費者や投資家の身体には届かない。
人体モデルで考えれば、これは極めて不自然だ。
もし指先が傷ついても脳が痛みを感じなければ、その身体は壊れるまで止まらない。
もし内臓が悲鳴を上げても、脳が無関心であれば、生命は維持できない。
ミトコンドリア文明モデルが問いかけているのは、
「痛みを誰が引き受けるのか」という設計の問題である。
社会は、効率のために痛みを切り離してきた。
だが、痛みを切り離すほど、全体の判断は鈍化する。
見えない痛みは、修復されない。
ここでAIの役割が浮上してくる。
AIは、情報の集約、可視化、シミュレーションにおいて、人間を圧倒的に上回る能力を持つ。
誰が得をし、誰が損をしているのか。
どこにコストが流れ、どこに歪みが蓄積しているのか。
人間の認知限界を超えたスケールで、構造を見える化できる。
だが、判断と責任までAIに委ねてしまえば、中枢は「脳」であることを放棄する。
それは、文明が自分の意志を手放すことでもある。
人体において、神経伝達は自動化されていても、最終的な意思決定は脳が行う。
反射は補助であって、主権ではない。
ミトコンドリア文明モデルにおけるAIの位置づけは、
「神経系の拡張」あるいは「感覚器官の増幅装置」であるべきだ。
末端の状態を、より早く、より正確に、中枢へ伝える。
金の流れ、労働の偏り、リスクの集中、時間の搾取。
それらを曖昧な物語ではなく、構造として可視化する。
しかし、その情報をどう使うかの判断と責任は、人間が引き受けなければならない。
中枢が脳であり続けるための条件は、三つある。
第一に、末端との感覚的な接続を絶たないこと。
数字の背後にある身体を想像できる回路を残すこと。
第二に、判断を末端に過剰委譲しないこと。
全体最適の責任を、個人に押し付けないこと。
第三に、判断の結果責任から逃げないこと。
「アルゴリズムが決めた」「仕組みだから仕方ない」という免責構造を許さないこと。
文明とは、本来、身体を守るための拡張装置であるはずだ。
身体を摩耗させるための装置ではない。
ミトコンドリア文明モデルは、社会を倫理で縛ろうとはしない。
善悪で裁こうともしていない。
ただ、生物としての整合性から設計を問い直している。
社会が生命体であるならば、
末端の痛みは、全体の痛みでなければならない。
速さよりも循環を。
勝利よりも持続を。
抽象よりも身体を。
文明が再び「生き物」として設計されるなら、
そこでは、誰かだけが痛みを引き受け続ける構造は、長く続かないはずだ。