オズ大王が、巨大な顔のからくりの影から人間の姿で現れて、語る場面がある。
「分かってるよ、この巨大な顔は、大げさだよね。
でもね、人々はこういうのを期待するんだ。
だから、みんなが欲しがるものを、与えなければいけないんだ。」
この一言で、オズ大王の像は、大きく変わった。
彼は、権力を誇示したい人物ではない。
支配したいから、威厳の演出をしているのでもない。
むしろ、彼は、人間が「わかりやすい力のかたち」を欲してしまうことを、静かに見抜いている存在として立ち上がる。
人は、本当は「支配」されたいわけではない。
けれど、不確実さに耐えることも、完全な自由を引き受けることも、簡単ではない。
だから人は、
安心して「委ねられる構造」を求める。
どこへ向かえばいいのか。
誰を信じればいいのか。
何を正しいとすればいいのか。
それが一目で分かる象徴、中心、物語。
巨大な顔のからくりは、そのための「見える重心」なのだと思う。
オズ大王は、その需要に応答しているだけだ。
半分歌い、踊るような口調には、どこか演技としての自覚すらにじんでいる。
オズは、支配しているというより、
人々が委ねられる構造を演出している。
その視点に立つと、オズは、単なる悪役ではなくなる。
彼は、人間という存在の性質を知ってしまった観測者であり、
その性質に応答する役割を、引き受けてしまった存在なのかもしれない。
興味深いのは、オズが別の場面で「本当は一人でいるのが好きだ」と語っていることだ。
この告白が重なることで、
「委ねられる構造」を提供する側もまた、本心では生きられなくなる、という別の構図が見えてくる。
人々が安心するために、
誰かが象徴になり、役割を背負う。
その役割は、次第に個人の輪郭を覆い隠していく。
安心を支えるための構造が、
いつの間にか、その人自身を縛る構造へと変わっていく。
オズの「迷い」という言葉は、
このズレを、彼自身が感じ取っている証なのかもしれない。
それでも、人は、重力のない世界では生きにくい。
完全な自由は、しばしば不安と直結してしまう。
だから、委ねられる構造そのものを、単純に否定することはできない。
それは、人間の発達段階における、自然な欲求でもある。
ただ、その構造が、いつ「支え」から「圧」へと変わるのか。
委ねることが、思考停止や服従へと滑り落ちる境界は、どこにあるのか。
オズ大王のあの一言は、
その臨界点を、静かにこちらに差し出していたように感じられた。
支配とは、誰かの悪意から生まれるものではない。
多くの場合、それは「委ねたい」という人間の願いから、立ち上がってしまう。
だからこそ、この物語は、
単純な勧善懲悪にはならない。
人は、どこまで委ね、
どこから自分の足で立つのか。
その問いは、
スクリーンの外にいる私たち自身にも、そっと手渡されている。