③ 宇宙は「知る対象」ではなく「遊ぶ余白」

なぜ「理解しよう」とすると苦しくなるのか

人は、世界が分からないと不安になる。だから理解しようとする。これは自然な反応だ。ただ、宇宙や人生といった大きな対象に対して同じ姿勢を取り続けると、どこかで息が詰まってくる。

それは努力不足でも、思考力不足でもない。むしろ構造の問題だ。宇宙を「完全に理解できる対象」として扱った瞬間、思考は終わりのない後退に入る。

理解するためには前提が必要で、その前提を理解するためには、さらに前提が必要になる。準備のための準備、説明のための説明が無限に続く。この無限後退は、哲学や物理の世界だけでなく、日常の生きづらさにもそのまま現れる。

「準備」と「完成」が永久に来ない構造

たとえば「ちゃんと分かってから始めよう」という言葉がある。一見、誠実で賢明に聞こえるが、宇宙レベルの話になると、この姿勢はほとんど機能しない。

なぜなら、宇宙について“ちゃんと分かる”状態は、原理的に到来しないからだ。すべてを説明し終えたと思った瞬間、その説明自体が次の問いを生んでしまう。

この構造に気づかずにいると、人はずっと「準備中」のまま生きることになる。人生も、思想も、いつまでも仮置き状態のまま進まない。

宇宙はパズルではない

ここで発想を少し切り替える必要がある。宇宙を「正解のあるパズル」として扱うのをやめる、という切り替えだ。

パズルには完成図がある。正解にたどり着けば、そこで終わる。しかし宇宙には完成図がない。少なくとも、内部にいる私たちには与えられていない。

もし宇宙が本当に“解くべき問題”なら、すでに解かれていなければおかしい。これだけ長い時間が経っても、まだ問いが尽きないという事実は、宇宙がそもそもパズルではないことを示している。

ドラクエⅢのカセットという比喩

ここでひとつ、身近な比喩を使う。ファミコンの『ドラゴンクエストⅢ』のカセットを思い出してほしい。

カセットの中には、世界の設計や物語、音楽、ルールがすべて入っている。しかし、カセット単体では世界は存在しない。電源を入れ、スタートボタンを押し、遊び始めて初めて、世界が立ち上がる。

重要なのは、「遊ぶ前に完全に理解する」ことが不可能だという点だ。説明書を何度読んでも、実際に遊ばなければ分からないことが山ほどある。

宇宙もこれと似ている。宇宙は“理解してから入る世界”ではなく、“入ってしまってから理解が始まる世界”だ。

「遊ぶ」という行為の再定義

ここで言う「遊ぶ」とは、ふざけることでも、適当に扱うことでもない。遊ぶとは、結果が確定していない状態に、自分を置くことだ。

遊びには必ず余白がある。失敗するかもしれないし、思った通りに進まないかもしれない。その不確定性こそが、遊びを遊びたらしめている。

宇宙がもし完全に予測可能で、すべてが決まっている世界だったら、そこに遊びは成立しない。逆に言えば、遊びが成立しているという事実そのものが、宇宙に余白が組み込まれている証拠でもある。

「分からなさ」は欠陥ではない

多くの人は、「分からない状態」を未熟さや欠陥として扱う。しかしこの文脈では、分からなさは欠陥ではなく、仕様である。

分からないからこそ、動ける。分からないからこそ、選べる。すべてが分かってしまった世界では、行動はただの消化作業になる。

①と②で見てきたように、宇宙は観測点を通して自分を見ている。もし観測結果が最初から確定していたら、観測そのものに意味がなくなる。分からなさは、観測を成立させるための条件でもある。

人生が「途中」である理由

人生がいつまでも途中で終わるように感じられるのは、失敗ではない。人生はそもそも完成しない構造を持っている。

終わりのあるゲームではなく、遊び続けるための場として設計されている以上、「途中であること」は異常ではなく、正常だ。

この視点に立つと、「ちゃんと生きられていない」という感覚も、少し違って見えてくる。それは遅れているのではなく、遊びの中にいるだけかもしれない。

思想もまた遊びである

思想についても同じことが言える。思想は完成させるものではなく、更新され続ける遊び場だ。

答えを出した瞬間に思考が止まる思想よりも、問いを投げ続ける思想のほうが長く生きる。②で述べた意識フィールドの考え方も、固定された真理ではなく、遊び続けるための見方のひとつにすぎない。

「余白」を取り戻すということ

現代社会は、余白を嫌う。効率、最適化、即答が重視される。その中で、分からなさや回り道は排除されがちだ。

しかし宇宙の構造そのものが余白を前提としているなら、人間だけが余白を失ってうまくいくはずがない。余白は甘えではなく、根本的な設計要素だ。

次につながる問い

もし宇宙が遊ぶための余白だとしたら、人間はどの程度までその余白を取り戻せるのだろうか。身体、意識、社会の中で、どこに余白は残されているのか。

次は、余白がもっとも直接的に現れる場所──「身体」という装置について、もう一段深く見ていくことになる。

タイトルとURLをコピーしました